発足当時の寮と学園(昭和25年4月〜26年3月)

鈴木 皓

 僕は在学中に三つの寮生活を味った。即ち入学当初の一年目は三鷹寮で、次いで駒場寮そして本郷での最後の一年間を西巣鴨にある豊島寮で過した。
 唯、本郷へ移る時に駒場寮から出ねばならず、住居に困っていた時、当時教養学部の自然科学科長をして居られ、また教養学部の地質科を創設された市村毅先生に助けられて先生の御宅に丸一年間おいて頂き、随分とお世話になった。

 所で僕が三鷹寮に入ったのは昭和二十五年の四月であるが、幾つか経験した寮生活の中で、或る意味では最も印象深い生活を送ったものと思う。
 新川でバスを下りて、トランク一つを下げてあの田舎道をとぼとぼと案内書の通りに門を入って行ったのであるが、人つ子一人住んでいる気配がない。青草がぼうぼうと生えている広い構内に如何にも殺風景な、大きな建物がでんと建っている丈である。まるで探偵小説に出てくる現場へ乗り込んで来たような感じだった。兎に角割当てられた部屋を探して二階へ上って行った。階段を踏む足音がいやに耳に響いた事を思い出す。やれやれと窓を開けて、人の住んでいた形跡すら感じられないような例の棚式のヘツドに腰を下してみた。その途端に真上の中二階から人声がしたのには虚を突かれて実際驚いた。それが奮っている。

 「おお、あんた柔道やらんね――」

 挨拶抜きの質問である。恰幅のいい髪の濃い男だった。何本と云って九州から出て来た人だが柔道初段(やがて二段をとった)の猛者である。年上だったので部屋ではOnkelと呼ばれて人気者だった。
 同室の連中には其の他に、文化放送へ行った高田義一(第二期委員)、三菱海運の郷薫、三菱化成へ入った田辺正彦(第二期委員長)、出光興産の石垣確治等が居たが、幾つかの寮生活の中で、此れ程皆の気が合っていたのは旧水戸高時代を除いて他になかった。そして始めにみたあの殺風景で空骸のような感じの構内も、木々の緑におおわれて青春の息吹が脈打つのを覚える程にまでなって来た。

 「諸君は大学生活をシュトルム・ウント・トランクの時期に過してきた――」卒業式における矢内原総長の訓話は、今でも鼓膜にこびりついている。

 僕の三鷹寮時代――昭和二十五年、それは学園が颱風の眼の中に投げ込まれたように荒れに荒れた年だった。トルーマンが水素爆弾の製造を指令し、我が国の警察予備隊が生れたのも此の年である。そして「三十八度線」と云う言葉を生んだ朝鮮動乱が始まった。

 対岸の火事だと云って高見の見物どころではない。九州の板付基地からジェット機が直接戦線へ飛立つのである。それも僅か十数分で目的地へ着いてしまうとは実に物騒な話である。これと前後してマッカーサーは共産党幹部の追放を指令した。僕はこれを井の頭線ホームの出口で街のスピーカーから聞いた。僕は在学中、これと云って取上げる程の学生運動をした覚えのない"日和見主義者"だった。でも大きな力が僕達を右へ右へと引摺り込むようで不安な気持にかり立てられた。

 少し先立って、北海道大学においてGHQの教育顧問イールズが、赤い教授の追放を煽動する講演をして(所謂レッド・パージ)ボイコットされる事件が起きた。まだ講和条約も結ばれず、当時GHQは絶対権力を誇っている時だった丈に反響は一段と大きかった。北大生の勇気は僕達に大きな励ましとなった。勇気と言うよりもそこまで至るべき趨勢にあったのである。

 夏休みを終えて寮は再び賑やかになった。そして学園には秋風と共に嵐が吹き始めたのである。イールズ旋風が各地の大学を吹き回った頃、駒場では学生の怒りは十月の試験ボイコットとなって現れた。度重なる全学投票の結果、学校当局の禁止にも拘らず試験ボイコットがとうとう可決されてしまった。しかし未だに思うのである。果してすべての人が「学問の自由」「レッド.パージ反対」「徴兵反対」――のみを願って賛成投票したのであろうかと……。

 折りも折、本館の大教室で荒正人氏と梅本克己氏の講演があったので僕も出てみた。

 余り盛会とも言えなかったが、それでも四、五十人の出席者がいた。眼鏡の奥で梅本氏の眼が光り「レッド・パージは現に行われつつある。諸君に必要なのは今や勇気のみである」と結んだ。僕は迷い、考えた。本当に僕達の先生がパージされるのであろうかと。だが幾ら考えた所で解決のつく問題ではない、パージはしないと云う当局の確約が明示されない限りは……。

 遂にボイコットの日が訪れた。朝、吉祥寺の駅で井の頭線のホームに出たら、守衛らしい人に一枚の紙片を渡された。見ると学校の見取図が書いてあり「今日は特別に正門以外の場所からの登校を許可する――」旨が地図によって示されていた。ボイコット賛成派のピケラインをくらまして試験場へ入るための案内図である。僕は悲しくなった。これ程までして試験を強行せねばならぬ当局の立場もさること乍ら、垣根から入ってまで試験を受ける学生が居るだろうかと――。
 そして十時頃、柏葉の徽章にかたどられたあの威厳のある正門は九重十重のピケラインに埋められてしまった。

  “友よ肩に肩を組め……”

 歌声が、そして異様に緊張した空気が漲った。その場に居合せた僕も何時の間にかヒケの真中に巻込まれてしまっていた。だが僕自身真剣になってピケを張っていたのではない。揉みに揉まれてロボットのような自分の不甲斐なさを嘆きつつ、水草が波に揺れるように体の動くがままに任せていた。

 正門から真直ぐに入ろうとする矢内原学部長は「道を開けなさい」と言われた。併し激昂したピケラインは耳をかそうともしない。 己を律するに厳しい人、学部長の顔は厳格そのものであった。僕達は先生方がパージされないようにと願って斗争しているのだ。それなのに先生方と真向から対立している。実際頭ががんがんして来る。坩塙の中で赤熱されて焼かれるような思いである。逃れようと藻掻いても堆塙の壁はつるつると滑って這い出せない、もう駄目だ――。

 だが此の状態も警官隊の不気味なサイレンの音と共に一瞬にして消し飛んだ。今迄ピケの中や外で様子を見守っていた学生――主に自宅からの通学生――もどっとピケに加わった。益々容易ならぬ事態に到ってしまった。顔、顔どの顔も硬直している。歌声は一層高まった。

 警官隊はピケを破るのが実に巧みである。警棒で一度ぐっと押してから少しゆるめると最前列の人は後の人波によって否応なく前へ飛び出る。そこをすかさず引張ってピケを一列づつ解いて行くのである。

 「学園を――僕達の学園を荒されて堪るものか――」

 僕は一生懸命になって踏ん張った。横を見ると三鷹寮の同室の高田や、これも水戸高の同級で同じ三鷹寮に居た篠崎寿幸(数学科)も一生懸命になって喰い止めようとしている。ピケが破られた瞬間二、三人の警官が矢のように学園内に突入するのを認めた。併し此の時僕のある友人が松の根元で鞄を抱えて笑っているのを見たのは一番情なかった。

 もう試験も何もあったものではない。警官隊が退きあげた後、銀杏の木蔭、教室の入口等各所で教授と学生のグループがレッド・パージと今度の事件について熱心に討論を交していた。植物の八巻先生が、寧ろレッド・パージ反対斗争の必要性を認め乍らも、手段を選ばぬ軽挙妄動と附和雷同を強く戒められた。

 積み上げられた巨岩が一挙にして崩れ落ちたような気持だった。先生方のために、そして学園のために斗うのだと云うのに、此れ程までに教授と学生の間に溝が出来てしまったとは。

 無我夢中で、その時は全然気付かずに後程知ったのであるが、玉虫、山下両先生も懸命に警官を喰い止めようとされたのだ。あの温厚な玉虫先生の内に秘められた情熱、学問を学生をそして学園を愛する人、何かしらそこに崇高なものを感じないでは居れなかった。そして亦、先生とお呼びするよりは"良き先輩"とでもお呼びしたい山下先生のような方が居られる限り、まだまだ学園の自由は守られるに違いないと心強かった。当時僕は山下先生からの講義を受けていた。

 此れらの事は山下先生の「駒場」に詳しく書かれてある。本当に苦しい時だった。僕は学生々活の中で此の事件ほどショックを受けたものはない。激しい動揺の後を襲ったのは何とも言いようのない空虚で嫌な感じだった。そして今にして思えば一種馬鹿らしい行動があったかも知れない。けれども普段教室では決して学ぶことの出来ない多くの事柄を身にじかに感じつつ学び得たのは事実である。あの銀杏の樹は此のような動揺も忘れ去ったかのように、今でも春には緑の芽をふいて、木枯らしと共に黄色い葉を舞いおどらせていることだろう。

 入学の時に貰った校則には確か服装の規定があった筈である。昭和二十五年と云えば漸く物が出廻り始めた頃であるが、それでも我々寮生には何かと不自由なことが多かった。尤も僕はとうとう制帽を一度も被らずに卒業してしまった。帽子を買うよりは古本や運動靴を買った方が、僕にとっては助かった。

 三鷹寮にも冬が訪れた。当時の三鷹寮からの通学は冬が辛かった。バスに乗って許りいたら、とても寮生の懐は一ケ月は持ちはしない。可成の寮生が新川の四つ角を真直ぐ通り抜けて、三鷹台の駅まで歩いて通った。僕は雨の日が嫌だった。長靴を持たぬのであの関東ロームの田舎道を泥につかり乍ら、なけなしの短靴で歩かねばならぬのには閉口した。だから雨の日には、寮に残って本でも読んでいた方がましである。

 雪の朝である。雨よりも雪の方がよい。泥濘に踏みこまないから――。高田がまだ一人、中二階に寝ていた。彼は旧制四高で理科だったが、今度は文転して入って来た。ドイツ語が好きで、今日もドイツ語の講義があるからと、兎に角二人で雪の中を出かけた。僕は運動靴だったが、彼は下駄である。下連雀辺りまで来た時、どうも下駄ではまずいと言って裸足になって、急ぎ足に走り出した。でも冷たさにはとうとう我慢しきれなくなって吉祥寺へ着くなり喫茶店へ飛び込んでしまった。帰りには新川の四っ角にあるうどん屋で、熱いうどんかけで体を温めた。田舎の挨っぽい薄暗いうどん屋は漬物を幾らでも食べさせて呉れるので、寮生の間でも評判だった。うどんと云うよりも、漬物を目あてに入って行くような有様だった。此の温かいうどんの味は今でも覚えている。

 高田はドイツ語の歌も旨く、僕が豊島寮へ移ってからも、シューマンの「女の愛と生涯」の楽譜を小脇に挟んで新宿辺りの音楽喫茶へ一緒に出かけたものである。だから今でもシューマンのものを聴くと、緑色の楽譜を抱えた彼と、あの雪の中をズボンをまくり上げて走り出した彼の姿が交互に思い出されてくる。(25年入寮)