決意


金持ちの放蕩息子。


それが人から見た自分の姿であることに僕は何の疑問も持たなかったし、
神に与えられた特権だと思っていた。
黙っていても金が転がり込んでくるというのに、僕が働く必要がどこにあるだろう?

人間には二通りの生き方があるのだ。
金が無くてあくせく働く人間と、金が有り余っていて施しをしてやらなくてはならない人間。
僕は間違いなく後者だ。

けれどどちらにも当てはまらない人間、金が有り余っているくせにあくせく働いている人間もいる。

その三番目の人間が彼だった。
彼は僕の年上の従兄弟。
親族の中で男の従兄弟は彼だけだったので、両親はよく僕と彼を比較する。
親から受け継いだ貿易会社を更に拡大し、彼は世界を相手に寝る間も惜しんで働いている。
若くしてSirの称号も手に入れた。
皆が口にしているように、確かに尊敬に値する男だ。
放蕩息子には所詮真似できない人間だった。




僕は広間の隅でアルマニャックを飲みながら、一人の女性を見つめていた。
笑いさざめく人たちの中、ただ一人笑っていない女性。
レースのベールに包まれた、人形のように固まったままの滑らかな頬。
今日の主役の一人。
彼が切望して手に入れた娘。
確かに美しい娘だが、あの男が切望してまで手に入れるほどの価値があるとは思えなかった。

ブランデーを何杯空けた頃か。
僕はシャンパンのグラスを二つ掴むと、人々の輪の中に入っていった。


「疲れてませんか?」
「え?」

グラスを差し出すと彼女は小さな声で「ありがとう」と言ってそれを受け取る。

「疲れているわけではありませんわ。・・・不安なだけです。」

そう言って彼女は僕の顔をまっすぐに見つめた。
僕はおや?と思った。
大人しそうに見えたのに、どうやらこのお人形にはしっかりと血が通っているらしい。

「花嫁の不安・・・ね。」
「あら。」

彼女は恥ずかしげに口を押さえた。

「違うわ、そういう意味じゃありません。」
「僕は何も言ってませんよ。」

おどけて笑って見せると、白磁の頬が見る見る赤く染まっていく。

「嫌だ、私ったら随分神経質になってるみたい。」

声を上げて笑った後、彼女は薔薇色の頬でにっこりと微笑んだ。

「―――僕の従兄弟はいい奴ですよ。」
「ええ、それは聞いてます。
けれど本人と話をした事はないんです。不安になるのは当たり前でしょう?」

「そうですね・・・。」

噂だとお茶会で会って見初めたと言うことだが、彼女は覚えていないらしい。
一回り以上も年の違う男と話をしたことなど、彼女にとって大したことではなかったのだろう。
しかし僕は彼がどうしてこの娘を切望したのか、この微笑みだけでわかってしまった。
―――人のものになってしまった娘に対して。

ふつふつと沸いてくる今まで感じた事の無い痛みを感じながら、僕は彼女を見つめ続けた。




従兄弟の留守がちなのを良い事に、僕は屋敷に入り浸るようになった。
子供の頃に止めてしまったピアノを彼女に教えてもらうという名目で。
いつまでも彼女は幸せそうに見えなかった。
あの堅物な男が年若い娘の扱いをうまくやれるとは思えない。
事実、彼女は溜息をつくことが多くなっていく。
内心僕は嬉しかった。
このまま通い続ければ、いつかは彼女の心を手に入れられると確信していたのだ。



「フレッド。」

テラスでお茶を飲みながら世間話をしていた時だった。

「私はとてもわがままな人間なんだわ。」

「何のこと?」
「・・・彼がここにずっと居られないことはわかっているの。一緒にいたいけれど。」

僕の胸は高鳴った。
彼―――それはひょっとして?

けれど平静を装って、僕はお茶を一口飲んだ。

「どうしたんだい、いきなり。」
「寂しいの。」

彼女の瞳に涙が浮かんでいる。

「彼にだってしなければならないことがあるわ。
それが私の為だっていう事もわかってる。でも、いつもいつも一緒にいたいの。」

「“彼”も本当はそれを望んでいるんじゃないかな。君が望めばかなえられる事だと思うよ。」
「そうかしら?」
「ああ。」

僕は立ち上がり、彼女の横に座るとぴったりと寄り添った。

「ジェニイ、僕は―――。」
「・・・愛してしまったのよ、彼の事。」
「彼?」

「ハワード・・・。」

そうして彼女は心の内を僕に語り始めた。
彼にお金で買われたように思っていたこと。
初めは冷たく距離を置いてしまったこと。
けれど優しい彼に心を開き始め、愛していると気が付いたこと。
それに気が付いた後は―――寂しくてたまらなくなったこと。

凍りついたまま相槌も打てないでいる僕の事などおかまいなしに彼女は淡々と語り続け、
堪えきれぬように泣き出した。
その姿を僕は遠い世界で起きている事のように、ぼんやりと眺めていた。




金も地位も手に入れた男は、美しい花嫁の心も手に入れたってわけだ。
その夜何軒か酒場をはしごした僕は行きつけのホテルに転がり込んだ。
部屋には更にラフロイグを一本運ばせる。
既に足元もおぼつかない僕に部屋係は眉をひそめたが、チップを弾むと途端に卑屈な笑みを浮かべた。
そう、金さえあればある程度の幸せはつかめる。
酒も遊びも女も―――ある程度のものなら。

通常ならば好まない強い匂いが全てを忘れさせるかと考えたが、飲めば飲むほど頭が冴えていくようだ。


昔から従兄弟に対しての感情は尊敬だと思っていた。
その反面、面白味にかける男だとも思っていた。
しかし今は気がついた。それは僕の思い込みだと。

僕の心の奥にあったのは羨望、そして嫉妬。
そうだ、彼に対して昔から感じていたのは嫉妬だったのだ。

いつでも僕は彼と比べられ、全て僕の方が劣っていた。
傷ついた自尊心を誤魔化すため、放蕩息子の名前に甘んじているしかなかった。

「くそっ。」

荒々しく置いたグラスが瓶に触れ、スコッチが床に広がっていく。
拾い上げようと屈んだ僕の耳に彼女の声が届いた。

(寂しいの。)

寂しい・・・。
あれは、誰かにその寂しさを埋めてほしいという彼女のサインだったのではないか?
そしてそれこそが僕の役目では・・・?


いつの間にか、僕の口から笑いがこぼれていた。

放蕩息子は放蕩息子なりの手段で手に入れれば良い。
それがどんなに卑劣な手段であったとしても。


瓶の中に僅かに残ったスコッチをグラスに注ぐと、僕は未来の花嫁に祝杯をあげた。

2007.10.15