風が呼んでいる。
時々―――本当に時々、風が私の体を通り抜けてそのままどこかへ連れ去りそうな気配を感じる。
ノッティンガムレースのカーテンが揺れる時、庭の木々がざわめく時、
そして夜の冷気と共に窓の留め金が微かな音を響かせる時・・・。
そう。
特にこんな満月の夜には。
「かあさま?」
「え・・・ああ、お休みの時間ね。」
いつの間に来ていたのだろう。
窓辺で佇む私の後ろに、乳母に手を引かれた小さな娘が立っていた。
「お休みなさい。いい夢をね。」
屈んでその頬にお休みのキスをしようとした私の首に、ぎゅっと娘はしがみついた。
「どうしたの?甘えん坊さん。」
笑いながらキスをした私を月灯りで金茶に光った瞳が見返した。
「なあに?」
「・・・行っちゃ、いや。」
「え?」
「どこにも行っちゃ、いや。」
不安げな顔。
そうだ・・・いつか見たあの顔と同じ。
「行かないわ。どこにも行かない。」
力強く頷いてみせると、娘は頬に笑いを浮かべた。
けれど不安げな色は完全に消えていない。
自分の娘なのに、不思議な子。
でも大丈夫。
あなたはかけがえの無い子供だもの。
この世界に私を繋ぎとめてくれる・・・かけがえの無い、愛しい私の娘。
「だから安心してお休みなさい。ね。」
私は娘の手を取って子供部屋まで歩いていった。
(オイデ・・・。)
ほら、また呼んでる。
(・・・イラッシャイヨ。)
風が窓の留め金を鳴らす。
私はそっとベッドから身を起こした。
窓の外では木々がざわめき、私を誘っているように揺れている。
(イラッシャイ・・・。)
大きく開いた窓から夜の冷たい風が吹き込んだ。
レースは大きく膨らみ、まるで誰かが窓から入ってきたかのような錯覚を起こさせる。
(オイデ。)
(オイデ・・・。)
私はバルコニーに足を踏み出した。
昼間のように明るい満月。
そう、こんな満月の夜は――――。
「ジェニイ。」
名前を呼ぶ声と共に後ろから抱きすくめられ、私は目を見開いた。
「風邪をひくよ。こんなに体が冷えてるじゃないか。」
触れた部分から彼の体温が伝わってくる。
その温かさで自分の体の冷たさを実感できた。
いつから私はここに立っていたのだろう?
夢から覚めたように意識がはっきりとしてくると、くしゃみが一つ私の口から飛び出した。
「ほら、私の言ったとおりだ。」
くすくす笑いながら彼は私の肩を抱くと、部屋の中に連れ戻してベッドに私を寝かせた。
開け放たれていた窓のせいで、部屋の空気も冷えてしまっている。
「ごめんなさい・・・。あなたの方こそ風邪を引いてしまうわね。」
ブランケットの下から見上げると、彼は肩をすくめて微笑んだ。
そして窓を閉じ、カーテンを閉めると彼も私の隣に横になる。
相変わらず風は窓を揺らすけれど、彼の表情に不安の色は一つも見えない。
「―――月がきれいだから、見ていたの。」
「そう・・・。」
聞かれもしないのに嘘をついた私の言葉に何も言わず、彼は私の体を抱きしめた。
暖かな胸。
穏やかな鼓動。
それにあわせたように、優しく私の髪を撫でる暖かな手。
・・・大丈夫。
私はどこにも行かない。行けないわ。
この世界に私を繋ぎとめるかけがえの無い人がいるんだもの。
かけがえの無い、愛しい―――私の最愛の人が。
「お休みなさい、ハワード・・・。」
愛しているわ。
そう言ったつもりだったけれど、彼には聞こえただろうか?
幸せな深い眠りに落ちていく頭の中で、私はぼんやりと思っていた。 |