ドイツの教会音楽         

             

このページでは、私がドイツで鑑賞したり体験したりした教会音楽のほんの一部をご紹介します。

1991年バッハ241回命日及び前夜のオルガンコンサート


2000年12月 ドレスデン、ライプツィヒのクリスマスの音楽


2002年3月8〜10日  ライプツィヒ聖トーマス教会受難節の音楽

トマーナーの歴史 (このページ内)
 

ドイツの教会音楽は、歴史を守り何百年もの間歌い継がれたものがある一方で、他宗教の歌も含め、世界中の音楽をドイツ語に訳し、新しいものをどんどん取り入れる姿勢がはっきりみられます。まずは聖歌MIDI録音 「一粒の麦が地に落ちて」をお聴きください。この聖歌については「世界の歌」リンクページ今や緑の葉はよみがえり をごらんください。

編曲1 一粒の麦が地に落ちて Korn, das in die Erde EG 98  オルガンの音を想定した教会風編曲。
編曲2 でも別編曲も聴いて頂きたいので、ここにもリンクしておきます。 テノールとバスは、地に落ちる一粒の麦を表しています。旋律が15世紀のものであることから、当時の音楽もイメージしています。

いうまでもなくキリスト教は、ヨーロッパに布教されて以来まさに西洋文化の中心として長い歴史を歩んできました。「復活祭の話」で述べたように、キリスト教はその地域に根付いていた原始的な宗教に使われていた物や、文化や習慣などを全く排除するのではなく、むしろ取り込めるものは取り込んで民衆の心をつかんできました。音楽もその一つです。教会は民謡や民謡の旋法などを取りいれ、教会音楽にして民衆に返してきました。

ヨーロッパの教会音楽の中で最も重要な楽器は何といってもオルガンでしょう。オルガンはコラール前奏曲を主として、会衆賛美を支え、聖書を伝える福音の役割を果たしています。教会という建築物の一部のようなものであり、これをなくしてヨーロッパのキリスト教音楽は語れません。数多くの教会で献身的に神に仕える少年聖歌隊も、教会という建築物の中で響く美しい声と信仰に満ちた歌声を追求しています。

ページ内に記述した他にもドイツの国内、国外の教会で素晴らしい音楽を聴きましたが、資料不足のため、本当に残念ですが、きれいに印刷された資料を渡してくれた教会で体験した音楽に限って記述します。 たとえば2002年3月にはハンブルクのミヒャエル教会で大変素晴らしい礼拝音楽を2度拝聴しました。2度目は棕櫚の主日でしたので、初めて棕櫚の葉をたくさん見ることができました。しかし美しいオルガンや独唱等の曲目については手書きで黒板に書かれていただけのため、その素晴らしさだけをとりあえずお伝えします。




1.キリスト教用語や教会用語については、日本における様々な慣用的な言い方があると思います。たとえば"Liturg"は独和辞典などにはカトリック用語として「典礼執行者」または「祭司」と載っていたりしますが、ドイツの福音教会で頻繁に使われています。日本における福音教会では「祭司」という言葉は使わないと思いますが、「司会者」とか「副牧師」または「伝道者」などでは分かりにくいように感じますので、「祭司」という言葉を使いたいと思います。他の言葉も雰囲気をお伝えできるようなるべく直訳するよう努めます。

2.文語体か口語体かは迷うところです。文語体は古いイメージがありますが、音楽的な響きをもち、かつ「イエスよ、我が喜び」などの有名曲タイトルを変えると分かりにくくなるように思えます。しかし全てを文語体にすると、理解しにくい言葉も生じます。今のところ混在をお許しください。


3.ドイツは、福音教会とローマ・カトリック教会の信者数がほとんど同じくらいですが、音楽またはその他が日本のように大きく異なってはいないと思います。それは次の2つの理由からなると考えています。
1)福音派の多い北ドイツや東ドイツから多くの大音楽家が輩出されたため
2)宗教改革以前に、長いキリスト教音楽の歴史があること

カトリック信者が多いオーストリアやフランスでも福音音楽であるバッハの教会音楽が演奏されていますが、ドイツの福音教会においても、フレスコバルディなどのオルガン曲が奏されたり、 グレゴリオ聖歌のような流れの教会旋法を使った音楽が、その長い歴史を物語るようにしっかりと生きています。

4.文中では言葉か音楽つきか分かりにくいですが、牧師の説教と主の祈り以外は音楽がついているといってよいでしょう。しかし近頃は教会離れが進んでいるせいか、献金後など一般の人々らしき祈りを聞くこともあります。ドイツの教会はだいぶ民衆的に変わってきました。

5. コラール前奏は、過去の音楽家による編曲やコラール前奏曲を用いる場合は作曲者名を、特に記述されていない場合はオルガニスト自身による編曲または即興演奏とします。各節ごとに異なる和声付けをします。

  なお、ページは、きちんとしたパンフレットを配布してくれるライプツィヒ聖トーマス教会が中心となっていますので、ここでライプツィヒ聖トーマス教会合唱団=トマーナーコーア・ライプツィヒの歴史について簡単に書いてみたいと思います。

 ライプツィヒ聖トーマス教会は1150年頃にロマネスク様式の教会が立てられ、1212年3月20日マルクグラフ・ディートリヒ・フォン・マイセンがカイザー・オットー4世を通してアウグスティノ・司教座聖堂参事会・聖トーマス神学校設立の受領を受けました。ここに聖トーマス学校が誕生したのです。聖歌隊少年たちはまず司教座聖堂参事会員から、後には校長とカントルに任命されたものから、典礼賛歌、読み書き、そしてラテン語の指導を受けました。1335年教会はゴシック様式に修繕され、1350年に塔ができ、1356年にはヨアヒム・シュントによってオルガンが設置。1477年には、大鐘「グロリオーサ」が鋳造されました。1482年から1496年までにロマネスク様式の建物は取り壊され、後期ゴシック様式の長堂が建築されました。この形は現在まで続いています。  

 カントルとしては、通例Georg Rhau(1519-1520) が初代カントルとしてあげられています。もちろんGeorg Rhau以前にもカントルの職は存在していました。しかし、記述としてはかなり不正確なものです。同じ時期に複数のカントルが記述されていることもあれば、16世紀以後のような意味でのカントルの仕事をそれらの人々の何人がしていたのかも正確にはわかりません。つまり、カントルと呼んでよい人物が何人いたかを決めることは、不可能です。  
 Georg Rhauを初代カントルとすることには、そのほかに、大きな理由があります。彼はバッハと同じ精神を持った最初のカントルだからです。1517年にルターが宗教改革のテーゼをWittenbergで公にした2年後に 、ルター派への信仰告白をしたRhau(1519-1520) がカントルの職に就きました。彼はルターの有名な宗教論争のために、12声部のモテットをトマーナーに歌わせています。ルター派はまだ認められていませんでしたので、Rhauはライプツィヒを去らねばなりませんでした。
 宗教改革がライプツィヒで正式に取り入れられたのは1539年のことでした。5月25日マルチン・ルターがトーマス教会内で演説。こうしてトーマス教会は福音派になり、この1539年カントルになったのは第4代カントルヨハン・ブルックナー Johann Bruckner 。カントルの仕事はその就任した都市で長く学んだ優秀な教会音楽家から選ばれ、就任した後は教会学校のみならず市全体の音楽を担う役目がありました。第14代カントル、ヨハン・クーナウが亡くなり、テレマン Georg Philipp Telemann が内定していながらバッハを推薦して辞退。第15代カントルとなったJ.S. バッハは、大学を出ていないこと、市になじみがないことなどから心から喜んで迎えられたわけではなかったわけですが、このケーテン宮廷楽長だった大バッハがカントルの歴史に大きく加わったことにより、トマーナーは今日に至るまでドイツで、福音派としておそらく最も重要な聖歌隊となったのではないでしょうか。こうして西洋音楽史の中で最も偉大なる存在であるバッハがこの聖トーマス教会カントルとなり、生涯を終えるまでこの任務にあたりました。  

 聖トーマス教会でライプツィヒ・ゲヴァントハウスが最初の演奏会を開いたのは1781年11月25日。1789年にはモーツァルトがトーマス学校を訪れバッハの声楽作品を聴き、自らはオルガンコンサートを開いています。1806年ナポレオン軍の大陸封鎖により、1808年までトーマス教会はフランス軍の倉庫として使われ、1813年にライプツィヒ近郊で起きた諸国民戦争(1813年10月16日〜19日プロイセン、オーストリア、ロシア連合軍とナポレオン軍との戦い)の影響を受け、1813年から14年までは野戦病院として使用されました。  
 バッハ音楽のなかでモテットなどは聖トーマス教会で歌われていましたが、「マタイ受難曲」がしばらく演奏されていなかったことは周知の通り。有名な話ですが大曲を復活させたのはメンデルスゾーン。1829年にベルリンで、1841年にライプツィヒで再演されました。1830年にはバッハ協会が設立され、作品の研究、収集、発行にいたります。メンデルスゾーンは自らの寄付によって1843年にバッハ像を建てました。エドワルド・ベンデマンEduard Bendemann によるこの像は戦災を逃れ、市内最古の建造物として保存されています。  

 1889年、聖トーマス教会にはヴィルヘルム・ザウアーによって製作された、いわゆるザウアーオルガンが設置されました。ザウアーオルガンは戦火を逃れ、今日もトマーナーはこのオルガンの前で歌っています。1894年に聖ヨハネ教会墓地からバッハの遺骨が発掘、鑑定され、その後1908年にゼフナーによってバッハ像が建てられました。聖トーマス教会前に建つのはこのゼフナーによるものです。  

 トマーナーが初めて国外演奏旅行をしたのは1920年でしたが、1939年第2次世界大戦の勃発により1941年に中断。1943年2月4日ついにトーマス学校は戦争によって崩れ落ち、トマーナー団員はグリマに避難。聖トーマス教会も爆撃を受け崩壊しました。1945年第二次世界大戦は終わり、ヒトラードイツは粉砕。トマーナーが避難先グリマからライプツィヒへ戻ったのは6月のことでした。その後いくつかの校舎に分かれながら授業が再開、翌年には戦後最初の外国演奏旅行を開始。ライプツィヒ市民はバッハの遺骨を 、旧ソビエト連邦の略奪から昼夜交代で必死に守り通し、1950年遺骨は現在と同じ聖トーマス教会聖歌隊席のスペースに遺骨が収められました。この1950年はバッハ没後200年にあたり、ライプツィヒでドイツ・バッハ祭が開催されました。なお1949年から50年までトーマス教会オルガニストを務めていたのは、かのカール・リヒター Karl Richter 。リヒターは少年時代トーマスカントルに師事し、ライプツィヒ由縁のある大教会音楽演奏家でしたが、東西ドイツ分断により西側へ逃げました。本来宗教は認められていなかった旧ソビエト連邦社会主義体制下となった悲劇は教会、教会学校にとっては計り知れないものだったと思います。 歴史あるライプツィヒ大学教会他いくつかの教会は壊され、ギムナジウムだったトーマス学校は、体制を変えられました。しかし聖トーマス教会は残り、1950年にはヒラー通りにトーマス学校が建設されます。現在日本でも活躍中の第30代カントルハンス・ヨアヒム・ロッチュ Hans - Joahim Rotsch が就任したのは1972年。1973年トーマス学校はペスタロッチ通りに移されました。  

 現在の聖トーマス教会オルガニスト、ウルリヒ・ベーメ Ullrich Böhme が就任したのは1986年のことです。1989年、また大きな時代の転換期がやってきました。ライプツィヒ聖ニコライ教会から劇的な月曜デモが始まり、ついに壁は崩壊。東西ドイツは1990年10月3日にやっと再統一となりました。 学費免除の理由から志願者や10倍ほどと聞いていますが、それにしても旧東ドイツ時代です。就職において不利であったはずにもかかわらず、トマーナーの歴史を良く守ってくれました。本当に心の感謝状を贈りたいです。  
 この旧東ドイツ時代1965年から1974年までにトマーナー団員として教育を受けたゲオルグ・クリストフ・ビラーが1992年に第31代トーマスカントルに就任しました。ビラーは1980年から91年までライプツィヒ・ゲヴァントハウス合唱団指揮者でした。現カントルであるビラーはこのように、まさに旧東ドイツ時代に教育とキャリアを積んだ人。彼は1994年からライプツィヒ音楽大学合唱のための教授にも就任しています。現在トーマス学校はきれいに改築され、快適な寮生活を送られるようになりました。しかし志願者も金銭的な補助も激減しており、今後の存続のために問題はたくさんあるようです。(このページを読んでくださった皆様にはグッズやCDを買うなどの金銭的援助をトマーナーに代わってよろしくお願いします。)  バッハ没後250年にあたる2000年には、バッハが理想としたオルガンを再現し、聖トーマス教会内に設置しようと、同教会オルガニスト、ウルリヒ・ベーメ Ullrich Böhme の提案、助言により「バッハオルガン」がバッハ・ウィンドウ(バッハの絵が描かれたステンドグラス)の向かいに設置されました。詳しくは「新バッハオルガンについて」をご覧下さい。
 約800年激動続きのトマーナーの歴史はほんの一部しか語ることができませんでしたが、これからも人間の歴史の限り続いて欲しいと祈ります。
主要 参考文献 Johann Sebastian Bach. Lebendiges Erbe. Beiträge zur Bachpflege der DDR. Heft 14. Nationale Forschungs-und Gedenkstätten. Johann Sebastian Bach der DDR.  Leipzig 1987.
他トーマス教会礼拝等のパンフレット。

ページ公開 2002年3月
2008年7月12日 に、歴代カントルについて加筆、訂正しました。

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