スロット遍歴1 

          管理人の何の自慢にもならない、つつましいスロットレーシング遍歴です

1. ブームのはじまり
 それは小学5年の年(1965年)にやってきました。出会いはグリコの懸賞、キャラメルのグリコに入っている紙片を9つ集めると確かレベルのスロットカーが貰えると言うものでしたが、ケチくさい子供だったのでそのような不確実な方法はすぐに諦めて、模型店へ出かけました。確か9月ごろでしたが、ショーケースでみたスロットカーは、まるで眩しい宝石のような輝きを放っておりました。スロットカー本体はさておき、その値段表に目が釘漬けになりました。キットが平均で800円これにモーターが別で150円かかる。当時の田舎小学生の目から見ると兎に角ベラボウな値段!小遣いの範囲のなかで何とかヤリクリ出きるのはだいたい200円ぐらいでしたから何と理不尽な値段設定なんだろうと思いました。

2. 買ったのは結局、兄弟でそれぞれ1台っきり
 いくら値段に憤ろうがどうしようが小学5年生にどうすることができましょう。それに欲しいものは欲しいんですから、少ないこずかいを必死の思いでヤリ繰りして、ニチモの1/32のコルベットステイングレイ'65を購入しました。記憶が定かではないので多分定価は800円だったように思います。
 一緒に行った弟がやたら格好イイと言うので他の1/24から見ると一回り小さくてだいぶ損した気分でしたが、その頃の国産車から見るとファストバックがとても垢抜けていました。
 後年、プレステ/グランツーリスモ2で同車に再びめぐり合いましたがゲームでは何かとてもバカでかく、エンジン音も重低音でワイルド、違うぞって感じがしましたが、これはこのスロットカーによるこっちの勝手な思い込みですね。
 キットは一般的なプラモデルと違って衝撃に強いABS樹脂使用が売り、接着剤も一般的なシンナー系の匂いと違って、いかにも毒性を感じさせられ、流石に小学生ながらこれは長い間は嗅げんって思いました。
 フレームは真鍮製のラダー型でホイルベースが可変、他のボディーと兼用されていたのでしょうか、ビス止め式で、やたら組立にくかった思いがあります。
 ホイルは現在と違いシャフトにネジが切ってありホイルにも同様な加工がなされておりました。
 ナットでホイルを固定する方法で最初に走らせるまでどういうものか理解できないでいました。スイングアームも売りの一つでしたが、こんなにベローンと下まで垂れ下がらんといかんのかとも思いました。
 作らないと気がすまない私に対して弟はショールームに飾ってあった出来合いの1/24のニチモ・マンタレイを購入しました。自分で組みたてろだのそんな片方だけ膨らんだヘンチクリンなゲテモノみたいなのやめとけだのの非難が逆効果、我が道を行くAB型サラリと買ってしまいました。
 しかし、今手元に残っているのはこのマンタレイのボディーだけ、シャシーも残っていたら中古とは言え結構価値があるのに残念。

3. 営業サーキットでの失敗
 こうしてやっとの思いで手にしたスロットカーだったのですが、スロットカー単体ではどうにもならないことは明らかで意を決して営業サーキットで走らせてみることにしました。
 市内一番のアーケード街に設置されたそれは小学5年生がまぎれ込むにはまるで場違いな大人の雰囲気。コースは8レーンあってコースの色は真っ黒だったと思います。
 帰ってしまいたい気持ちに走らせたい気持ちが勝りました。無愛想な店員に100円払ってコントローラを借受け、車をコースにおいてコントローラを親指で押し下げる。コルベットは微動だにせずウンともスンとも言いません。半ベソかいてくだんの店員に調整をお願いすると非難されることも無く、と言って愛想もなくホイルのナットを調整してくれました。
 ナットをメタル側に締めこんでいたので当然モーターは回らない訳です。やっとナットをホイル側に締めてロックする理屈がわかりました。
 それで走らせ始めたのですが、最初から上手くいく筈もありません、殆どのコーナーでコースアウトの連続でした。他のコースを走らせていたのは殆ど大人だったように記憶しています。
 走らせずに見るだけの小学生もいて、なんと私のステイングレイが小振りながら格好良く見えたのでしょう。彼の前を走らせるとこれが格好いいって言ってくれていましたが余りにも遅く、余りにもコースアウトが多いのでその内見捨てられ無視されることになりました。

4. ホームサーキット購入悪戦苦闘
 このようにしてスロットレーシングカーを初めて走らせたのですが、色々なスロットカーの歴史に関する文献では学校から禁止令が出ることになります。
 松山でも全くそのとおりで、担任の男性教師が「この学校でもそういう処に行っているものがいる。いかがわしい場所なので禁止する」みたいなことを名指しはされませんでしたが言われました。
 優等生を演じていたのでこの言葉には縮みあがりました。今のゲーセンなんかと比べたら何ほどのこともなかったと思いますが当時は比べるものが無かったので妙に納得していました。
 ただ、それではスロットカーは走らないただの車のプラモデルもどき。もっと走らせたいとの思いは無謀にもホームサーキット購入作戦に打って出ることになりました。後から考えれば、ニチモの9,800円のフェラーリとポルシェF1が入った8字コースのセットを買うのが一番効率が良かったと思いましたが、車のほうはすでに用意されている。
 ええい、コースパネルを1枚ずつ買い足すんだと言うことになり、結局曲線パネル6枚と直線パネルはターミナル部を含んで4枚のオーバルコースをやっとの思いで作りあげました。電源は模型店に騙されてバンダイのものコントローラはなくて電源からターミナルへの接続線を直接コースに接触させてオーバルコースを走らせました。
 どうやるかと言うと向こう側のコース手前で接続線を離して減速、コーナー途中でまた接触手元に来たら減速を兼ねてまた離す。これが要領が解ってくると結構リズムに乗って何百周だって出来る、後でニチモの純正のコントローラを入手しましたが、コントローラでやるよりこの方法のほうが面白かったぐらいでした。
 その頃にはリヤタイヤの溝も磨耗して消え、グリップも出ておりました。今のスポンジタイヤとは違っておりましたが、これはこれでなかなかいい感じでした。弟のマンタレイも走らせましたが1/24で大きいこともあってこのような方法での楽しみ方には向いていませんでした。弟もブームに載っけられて勢いで買った口だったのですぐにスロットカーからは手を引いてしまいました。

5. あっけないブームの終焉
 1966年、小学6年生になったころからブームは嘘のように冷めていきました。自分自身も単純なオーバルトラックをただグルグル回るのにも飽きていたし、新たな興味はUコンのエンジンに向っておりました。財政的に大打撃を受けていたのにどうやって資金調達できたのか今から考えると不思議です。
 ブームも終焉をむかえつつあった頃に同級生から、その同級生の友人のスロットカーの組み立てを依頼されました。製品はレベルの1/24コブラでありました(多分?)。
 外国製スロットカーの印象は、1年前にチラッと見たCOXやらモノグラムなどの天文学的な値段。4,200円とか3,800円なんて買いたいとか欲しいとかと言う以前の異次元の世界。欲しいと言う感情すら起きませんでしたが、レベルのスロットカーがどんなものか興味は湧きました。
 他の文献でもレベルについては1,800円ぐらいで身近な存在であったと書かれています。フレームはアルミのラダー型でした。精度は可も無く不可もなくでモーターについてもマブチの36型が名前を変えて入っていました。リヤタイヤはスポンジタイプに進化していました。今のブラックマジックなんかよりは堅い感じでした。ボディー整形色は藤色のようだったと想います。塗装なんかまだしてなかったのでデカールを貼り走るようにしてコースでテストして渡しました。思えば今もボディー製作依頼が時々あるのはこれの延長だったのでしょうか。スロットカーのレベルとしてはそんなに凄いとは思いませんでした。私には当時の外国製スロットカーに対するトラウマが全然ないのはこんな事情があったからです。

6.白金サーキット
 ブームが過ぎ去るのと比例してスロットカーに対する情熱が冷めていき、あれ程苦労して集めたスロットコースとスロットカーも年下の従兄弟に中学に入学する67年に返還時期指定なしで貸してやるってことで処分してしまいました。スロットカーの原体験は残ったものの78年に復活するまで特にやりたいなんて思いませんでした。
 1978年昭和53年に大学を卒業して就職しました。一ヶ月ほどの研修期間を経て東京で勤務することになりました。勤務のほうはあんな事やこんな事でいろいろでしたが、前年から興味を持ち始めたF1はロータスが79で歴史的な快進撃を繰り広げ、2輪ではキング・ケニーロバーツ(現在のJrの親爺、我々年代ではこっちが本物の超々カリスマ)が250と500にタブルエントリーして前年チャンピオンのバリー・シーンを圧倒していました。その活躍をオートスポーツと創刊草々のライダースクラブで読むのが楽しみでしたが、そのオートスポーツの隅にスロットカーの事が連載されておりました。
 松戸の寮に住んでおりましたので都度都度掲載される白金サーキットも1時間程度でいけるのでひとつどんなものか9月頃見に行くことにしました。目黒駅で降りて白金台へ坂を下ることだいたい20分、小さな白金サーキットの看板があり何の変哲もないマンションの地下駐車場へスロープをおりると90b8レーンの巨大サーキット出現。サーキットに入って驚いたのは兎に角そのスピードでした。今のスロットカーで言えばフレキシィだと思いますがとんでもないスピードで1回目は尻尾をまいてすごすごと帰ってしまいました。
 でも、やっぱりやってみたい、翌週も出かけていって店員に始めてみたい旨相談しました。とても親切でフレンドリィな対応でその場で組んでくれました。シャシーは青柳の一番幅広のタイプ、タイヤはオレンジコンパウンドでモーターはFT−160D?、ボディーは917Kクリアボディー、ボディー塗装だけは自分でやってくださいとのことでその場でリキテックス購入しましたが、その日はクリアのクリアボディー(笑!)で走らせました。
 当然上手く走らせられる訳はありませんでした。
 他のホビーやスポーツにも共通することなんでしょうが長続きすのには上手くなるのにある程度の時間が必要なこと、上手くなるのが実感できることなんてのがあるんじゃないかと思います。月に2〜3回通い二ヶ月ぐらいするうちにコースアウトせずに周回出きるようになりました。
 やっていく内で一番違うと思ったのは2ハンドタイプのコントローラでした。最初はガングリップタイプが良いのかと思っていましたがブレーキボタン付きの青柳製コントローラが絶品であることがすぐ解りました。ブレーキはFT−160Dなんかの低出力モーターではただのショートブレーキでも何とかなっていましたが10月頃マブチからFT270Sが発売されました。わずか1,200円でありながら胸のすくような加速。白金の上の直線が終わるところでターボが効いてくるようにもう一伸びクーッって来る。大バンクを駆け下ってヘヤピン手前でフルブレーキング。全身の毛穴からアドレナリンが噴出するくらい興奮しておりましたが、このコントローラは逆電ブレーキ回路が付いており、ブレーキ時に別電源で強制的にモーターを逆回転させて強力なブレーキをかけることが出来ました。最初はサーキットで買った平角3号の3V乾電池でしたが、後日発売間も無かったタミヤの6Vニカドパックにパワーアップしました。今のスロットではこの逆電ブレーキは禁止されていますが、当時は当然だと思っていました。随分とワイルドで野蛮でしたがそれはそれでとても走らせる満足感と言うか満腹感がありました。
 大学院へ進んだ同級生の東京在住の従兄弟に夜、車で連れて行ってもらうようになると、店でお客どおしでやる草レースに自然に参加するようになりました。スタートランプだけ操作して後はコケていって最後マッチレースになって最後まで生き残ったのが勝ちみたいなルールでした。それまではコースアウトしないように走っていただけでしたが、競争するとまた違った楽しみが出てきました。草レースですからレギュレーションは当然ありませんでしたが、多分シャーシは青柳製でモーターも270Sだったんじゃないかと思います。上直線から大バンクを駆け下ってヘアピン手前へ殆ど全車一緒に突っ込んでいましたのでほぼイコールコンディションだったのでしょう。ヘヤピンで内側の車が飛ぶと全車巻き込まれてそのレースは終わりなんてことは度々でしたが、皆笑いながら次行こうってやっていました。とても大らかでオープンで楽しい雰囲気でした。その時々のレースのメンバーにもよりましたが大体、最後の2車に残っていました。
 見ていた従兄弟もその内やりたいと言い出して、彼用の車を組みました。練習している内に結構走れるようになりました。東京での勤めは色んな事情で翌年3月で止めて松山に買える事になり、スロットも休止することになりましたが、たった7ヶ月ではありましたが、本当のスロットの魅力を味わった時期でした。

7. 再びの沈黙
 79年に松山に帰ってしまいましたが当然スロットサーキットなんてありません。おりしも76年のタミヤ・ポルシェ934に始まった電動ラジコンカーは、タミヤ・フェラーリF1とか青柳RXシリーズなんてのが発売されて、活況を呈しておりスロットが出来ないウサをラジコンカーで晴らすことにしました。
 模型店の猫の額ほどの駐車場の隅をしきったサーキットで小学生や中学生に交じって走らせるのはこれはこれでなかなか気恥ずかしいものでありましたが、暫くするとまずまずコースに慣れました。タミヤ・フェラーリ312T3で走ってましたが、重量があるため加減速が悪く、中学生のヨコモ、小学生のRX2000にはまるでかないませんでした。
 ラジコンですので当然ステアリング操作が加わるわけですが、ラジコンカーは一人空き地で走らせる分には直ぐに飽きてしまいます。それでレースまがいのことをすると大抵の場合接触があって何処か壊れる。スロットカーだってコーナーに一緒に飛び込めば外側のコースでは弾かれることもあるけれど直線部では他コースから進路を塞がれることはまずないですが、ラジコンカーの場合悪意をもって直線部分で体当たりされることもあり、部品メンテやら何やらでコスト的にはスロットカーの5倍はかかると言うこと、コーナーでの競り合いの興奮がスロットほど感じられないことなんかである程度やって結局尻すぼみになってしまいました。
 結婚して、長男が87年に生まれ翌年88年、ミニ4駆のブームが大津波のように押し寄せてきました。長男が3歳になったころから彼をダシにミニ4駆親子鷹で模型店、玩具店主宰のレースに出場しまくりました。松山はタミヤのオフィシャルの競技会がお盆の前後にやってくるので91年から96年まで出場しました。(92年は台風のため中止でしたが)ミニ4駆はコースへ車を投下したら後は車まかせセッティングの勝負でいわば模型飛行機の分野で言えばフリーフライトにあたります。それはそれで奥が深いものでしたが、パーツや知識が行き渡る前のアドバンテージがある時は勝てる確率が高かったのですが競技がこなれてくるとドンドン難しくなり勝てなくなりました。父親が子供のミニ4駆に手を出すと言うのは末期にはかなり一般的になったと思いますが、時代にさきがけて手を出していました。最後のほうはかなり厳しく締め出されました。長男は4年生まで言うことを聞いてくれましたが、やがて5年になるとミニ4駆のブームの終焉とともに離れていってしまいました。
 こっちはスロットのかわりにラジコンやミニ4駆をやりましたが白金ほどの満足感は得られませんでした。

8. 邂逅
 90年1月に次男が生まれたのですが、その頃松山の繁華街2番町のプールバー"マジックボックス"に職場の友人が連れていってくれそこでスロットサーキットと唐突に出会いました。79年から11年、出会った時はすでにプラフィットやさかつうコンペの時代が始まっていました。コントローラもガングリップでプラモデルのボディー、モーターも何かミニ4駆と同じ形でこんなので速く走るんかと思いましたが10年のブランクの間の技術は大きく進歩しておりました。やっと出会いはしましたが飲み屋街のプールバー、これに本格的に入れ込むのは躊躇せられました。

9. 再開
 数回行っている内に足が遠のいて店自体も95年には別の店になりサーキットのことも解らなくなりました。96年の1月に職場で昼休みに後輩がプラフィットミニのシャシーをいじってました。思わずそれをどうしたのか訪ねました。彼はオースチンミニに乗っておりそのようなヒストリックカーの趣味がありました。出入りしている店が付き合っているオートシローと言うヒストリックカーの店にサーキットが出来たのだと言う。直ぐに土曜日に飛んでいきました。店は松山市の南の端、県道沿いにあり外壁は多少古くなりつつありましたが、綺麗に整理整頓された車屋さんでした。ただ、今回もとても場違いな感じでした。置いてある車がセブンやSR、スカイライン箱の2000GTRなどで独特の雰囲気で、車なんか走ったらいいと思う一般人はあまり来ない処。F1や2輪レースは大好きであっても自分の脚にしている車は92年のカローラ1500、新車で買って10年乗り潰すつもりでいる人種。今回も意を決して店に入りました。出会ったサーキットはあのマジックボックスにあったのと全く同じ形のものでした。実際のそれはマジックボックスのサーキットそのものだったのです。
 後で兵頭さんに聞いたら、「うちの店に来るような人種じゃないしこの人何しに来たんだろう?」と思ったそうです。話をするうちになんだスロットかと、多分純粋にスロットのためだけに店に出現した最初の人間だったんじゃないかと思います。

 ながながと遍歴を続けてたどり着いたこのミルキィウェイサーキットに現在も通う日々が続いています。

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