マルゼン


栄光のハンドガン


 今回の写真はすべて第1作目のS&W M59を使用しています。写真は当時よく遊んでいたmelosさんに、資料などはNifty ServeのFMOKEIRGの会議室で意見をいただいたり、当時のコンバットマガジンの広告欄を参考にさせていただきました。ありがとうございました。

 かつてサバゲー用ハンドガンといわれればマルゼンのコッキング式シリーズであった時代があった。今回はこのハンドガンシリーズの栄光と衰退を追いかけてみようと思う。

 マガジンにカートリッジを装填して銃にセット。押し込み式のコッキングでコッキングしてトリガーを引くと発射と同時に勢いよくブローバックしてカートリッジが飛び出す。ブローバックとはいっても今のガスガンのように連射できるわけではない。カートリッジは共通で45口径でも9mmパラベラムでも同じものを使用していた。これがこのハンドガンシリーズの共通したスペックである。


 第1作目のS&W M59が発売されたのが1984年春。このころのハンドガン市場を当時のコンバットマガジンの広告欄から調べるとマツシロからガバメント、モーゼル。ファルコントーイからM29、ウッズマン。ヨネザワからパイソン357。チヨダからマークスマンガバメント。タカトクトイスからオートマグが発売されている。そして夏には東京マルイがブラックホーク、M−29、パイソンを発売する。また、この年あたりからサバイバルゲームが流行りはじめてエアーガンとモデルガンの比率が徐々に逆転しはじめ、エアガン全盛期になる前夜だったのである。
 そのなかでマルゼンシリーズは絶対的なシェアを獲得した。なぜ、マルゼンがサバゲー用ハンドガンの地位を築けたのか?それはおそらく当時としてはしっかりしたパワーとグルーピング(とはいっても当時の雑誌をみると5Mで6cm)。そしてBB弾を採用したということであろう。
 前述したハンドガンの中でBB弾使用はマルゼンのハンドガンのみ。他は写真などで確認したところおそらくすべてがつづみ弾という弾丸タイプの弾を使用している。この弾は弾速の低下が早く、飛距離が伸びない。この弾が決定的だったのではないだろうか?後にここにあげたほとんどの銃がBB弾使用にマイナーチェンジされていくがいち早くBB弾を採用して安定した飛距離とグルーピングを得て、当時としてはオーバースケールでもないそれなりな外観が勝因ではなかったのだろうか?


 2作目はP−08。3作目はガバメント。ここまでのモデルがなんと同じ年に発売されており、そしてさらにマルゼンは続々とラインナップを増やしていくのであった。

 翌85年はP7M13。これはコンペンセイターのような延長バレルが先端についていて、これは当時の業界自主規制で全長20cm以下のハンドガンを作らないという規定のためといわれているが、単にこの短いバレル長では当時はまともな命中精度をえられなかったからではということもあるかもしれない。そしてこの年はSIG P226、ワルサーP−38が発売されている。
 また、この年からガスガンの発売が始まっており、今までほぼ独壇場であったハンドガンの市場に高価ではあるが高性能のガスハンドガンMGCベレッタ93RとAR−7ピストルが参入してきてハンドガンの市場は高性能のガスハンドガンと低価格とライブカートアクションが売りのマルゼンと2分化してきたのであった。

 翌86年はマルゼンハンドガンにとって決定的な商品が発売される。東京マルイの1980円シリーズ第1作目P−08である。この銃はケースレスでコストを抑えた低価格商品でありながら命中精度はマルゼンハンドガンより高く、価格は半分以下であった。これに対するマルゼンハンドガンの強みはライブカートでブローバックということであったがサバイバルゲームにはライブカートはかえって邪魔な物であり、あまり強みにはならなかった。
 また、命中精度はマルイの方が比べ物にならないほど上で、シューティングマッチなどで徹底的にいじったマルゼンのフルカスタムモデルが1980円の箱だしのP-08にあっけなく負けるようなことも起きたのだ。
 上級モデルをガスハンドガンに、低価格モデルを1980円シリーズに押さえ込まれたマルゼンのライブカート式ハンドガンシリーズはこの次の商品のベレッタ92SB−Fで終了し、このあと、マルゼンは主力商品をガスハンドガンシリーズに移行する。
 最後となった92SB−Fは木製グリップ、ワンタッチケースレスキットまで付属した限定商品で価格も7000円というお買得価格であった。
 しかし、発売されたのは翌年の87年ですでに市場は完全にガスガンに移行していた。このマルゼンライブカートアクションの集大成ともいえる92SB−Fはたいした話題にもならずに生産中止に追い込まれ、マルゼンのライブカートアクションのシリーズはこれを最終作品として終わったのであった。