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留学を終えて考えて[U]

 そこの国で生きていくためには、そこの国での「自分の場所」を探さなければならない。それはどこの国でも同じだ。個人主義と利己主義の区別がつかなければ話にならない。「自己」を確立するための「独立心」と、「利己的」になる「甘え」とは意味が違う。

 日本では組織の生成過程に問題がある。日本の組織は硬直化しているが、日本人は硬直化していることに気がつかない。いったん組織に取り込まれると、抜けられなくなる。組織がガチガチでがんじがらめだからだ。日本では組織という器があって、人はその中に入る。だから身動きが出来ない。縛られる。しごかれるのだ。典型的な例は「お家制度」だ。「うち、そと」の典型だ。生花、お茶、歌舞伎、相撲など枚挙にいとはない。喧嘩して出て行っても活躍する場がない。既に組織・団体に場を押さえられているからだ。「自分」などないほうが組織には都合がいい。個人主義はご法度である。縦割りで上下関係がはっきりしているからだ。従って、話をする時にも常に上下関係を気にしながら言葉を選ぶ。これは日本人が水耕稲作民族だったのが遠因かもしれない。  これに反して、欧米の組織はそれぞれの能力が緩やかに繋がって作る柔かい組織である。唯一の原動力は競争だ。だから物凄くきつい。負けたらはじき出される。入れ替えが可能だからだ。自分が、自分のために努力するから、努力のしがいがある。失敗しても自分の責任だ。年功序列は関係ない。先輩・後輩など関係ない。日本の芸能界、特にお笑い芸人の世界ではやたらと先輩・後輩、芸能界にいる年数を気にする。若い世代は考え方が新しくなったのかと思いきや、現実はやたらと古くて保守的だ。

 日本の組織のように「お前のためだ」などと、まことしやかな嘘を付いて、相手をこき使い、しごく。それは「言うとおりに努力すれば」、最低「場」に留めといてくれるという保障に過ぎない。どうして、こうなったか解らない。日本人が意識として持っている「うち、そと」の世界観かもしれない。

 個人主義は心理面からも違いがわかる。「自分は上手くやった」と常に主張するのと、「自分はもう少し上手く出来たのに」と言うのとの違いである。「アイ・アム・ソーリー」と言うのには限度がある。いつも「アイ・アム・ソーリー」と言うのは自信がないとみなされる。決して謙虚だなどと思われない。日本のように社会が要求し、甘えも残っているような国では当たり前のことだろうが、日本以外の国では考えられないことだ。

 日本での人間関は複雑だ。第一、言葉だって、上下関係でお互いに使う言葉が違う。欧米語だって尊敬語や謙譲語に相当する言い回しはあることはある。あっても普段は必要ない。日本語のように口を開くたびに、相手と自分を比較して喋らなければ失礼に当たるなどという言語は言葉でない。コミュニケーションのツールとしては最低である。だから、人間関係に疲れれた人には、日本は耐えられない。更に、漢字も煩わしい。仮名を使えば識字率100%のはずだし、今でも会話では漢字がなくても問題はない。

 私にも経験があるが、アメリカからヨーロッパに渡り、各国を廻っていた時は、すごく短気になり、不正や不公平や極端な習慣の違いや不条理には声を荒立てていたみたいだ。たいがいはカルチャーの違いであり、我慢すればすむことなのだ。旅行中ということもあり、自己防衛的に振舞っていたと思う。それに少々自分を見失っていたかもしれない。そして、欧米に暮らしながら個人主義に対じする自分を発見することになる。そして、日本を考え、外国を考えている自分がいる。

 この 『ミネソタの遠い日々』 は1970年の秋から1972年の初夏まで滞在したミネソタでの生活の記録である。日記をつけていた訳ではないので、私の記憶やら当時の資料だけが頼りである。ノッコの経験や記憶は私のものとは違っているかも知れない。チャオのこととか、フランス語のクラスのことなど、ノッコが書いたら違った内容になったと思う。

 チャオは幼かった。幼稚園から小学校T年生まで2年間、ミネソタの生活を経験しているが、ミネソタでの記憶は大半残っていないと思う。この回想録 (メモワール) が記憶の一端として何かの役に立てばと願う。

 そして、ケネディ空港から大西洋を横断して、計画通りパリに行った。パリ大学でのノッコの夏期講座(フランス語教授法)受講のために、親子3人でそこに約3ヵ月間滞在した。滞在中、友人のピーターやブライアンに会うためにイギリスを訪問した。このパリ滞在記は 『遠い夏へ想いを』 と題して書いた。イギリスの思い出も書いているが、フランスについては聞いたり経験したりした全てを書ききれなかった。

 パリからの帰路はジュネーヴ (スイス)、ウイーン (オーストリア)、ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツエ、ローマ (イタリア)、アテネ (ギリシャ)、ベイルート (レバノン)を旅行した。

 その後イタリアについてもブログに書いた。現在3度目のイギリスについて書いている。今後ドイツ・オーストリア旅行について記憶を織りまぜて書こうと思う。ともに、ノッコとチャオの3人で旅した経験を綴ったものだ。いずれも、1972年の楽しい旅の想い出である。

 帰国して2年くらい経って、日本企業からアメリカ外資の企業に転職することができた。ミネソタと縁ができ、その後もミネソタに幾度か出張して、その都度、ウィークス一家と親交を暖めることができた。ミネソタで知り合った多くの友人、知人、当時のコモンエルス・テラスの住人たち、その他、多くの人たちに感謝の意を表したい。

 支えてくれたノッコと、小さいながらよく努力してくれたチャオに有難うの言葉を伝えたい。

 尚、使用した写真は、当時、金銭的に余裕がなく写真も充分に撮れなかったので、後年、出張や私用でミネソタを訪れたときに撮った写真をつけ加えた。


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”遠い夏に想いを”- Click here(ヴィオさんの旅行ブログ) も一読ください。
ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。