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留学を終えて考えて[T]

 ミネソタからニューヨークに飛び、ミシガンとコーネルの大学院を出て日本企業のニューヨーク事務所で働いていた親友のH君の広いアパートに1週間くらい泊めてもらった。ニューヨークで楽しい日々を過ごしたり、ボストンやワシントンを訪ねたりする機会もあった。H君には感謝したい。大西洋を飛んでパリに行った後の手記についてはブログに書いた。

 帰国して、会社に出社したら、出迎えてくれた同僚や女子社員達が異口同音に叫んだ。
「ヴィオさん、明るくなった!!」
 留学や駐在で性格が変るのだろうか。日本と外国と(我々の場合、欧米でしか暮らしてないのだが)では余りにも文化と環境が異なる。少なくとも留学や駐在では長期間滞在となるから、短期留学や海外旅行とはインパクトが違う。それに40年も前だ。我々もノッコの短期留学で、パリに3ヵ月滞在した経験があるから分かる。

 性格が変わるかも知れなし、変らないかも知れない。個人の適応性の問題かもしれない。例えば、消極的性格が積極的性格に変わるとか、その反対にとか。陽気な性格が暗い陰気な性格にとか、その反対の場合とか。だらしない性格が厳しい性格にとか。それには文化と環境が影響しているように思える。少なくとも私の場合はそうだった。

 それは人によって異なる。その上、住む国の環境が大きく作用する。現地人の違いもあるだろう。アメリカ、オーストラリア、イギリス、ドイツ、北欧が郊外型で、フランス、イタリア、スペインは都市型である。その他の国々はその間にプロットできる。勿論、これは一般的な分類に過ぎない。ステレオ・タイプ的な見方といってしまえば、そのようにもとれる。日本人と欧米人はDNAの違いによるものか、歴史的・文化的・習慣的な違いなのか、性格や行動様式が異なる。従って、国により生活環境が大いに異なるのだ。

 個人主義の度合いによっても大きく変る。欧米では 「自分」 がないと、存在理由がない。それには、「自分」がいる「場所」が必要になってくる。日本では「自分の場所」が自由に選択できない。個人主義とは一人でいることではないし、身勝手な振る舞いをすることでもない。独立した個が大勢いて、その中で精神や存在が他と区別できていないといけない。各々が違った存在でなければならない。勿論、差別は起きる。余りにも違った者を認めない。それは不条理との戦いである。

 それに、欧米では何事も白黒をはっきりつけないと生きてゆけない。日本人は甘えと長い封建制度による社会的抑制が影響して、ストレートにものを言うことが許されない。言葉とコミュニケーションの問題。言葉も文化である。言葉を発する度に、上下関係、内・外の関係を常に頭に入れていないと日本語にならない。本当の意味でのインコードとディコードによるコミュニケーションは2の次だ。

 例えば、「お茶にしますか、コーヒーにしましょうか」 といわれたら、「お茶にします」 又は 「いりません」 との答えが欧米では当然期待される。「どちらでも結構です」 とか 「忙しいのにお構いなく」 と相手の気持ちを考えて答えるのは予想外である。「どちらでも結構です」 とか 「忙しいのに結構です」 は日本人がよく使う。「忙しいのにお構いなく」 は本当は 「いだきたいのですが」 という意味が含まれていて、日本人なら客の気持ちを察する場合が多い。こうゆう話手の推測は必ずしも正しくない場合が多い。こんな意思表示は外国では言葉のとおりに理解されるから、お茶もコーヒーも出てこない。日本流にやると「嘘つき」呼ばわりされることもあるだろう。本音と建前の問題である。いままで散々言われてきたことだが、現実に直面すると、なかなか直らない。

 外国との交渉などで、相手の「悪事」をはっきり言わない日本人(特に政治家・官僚)が余りにも多い。理由は「そのくらいのことで、とやかく言うと、問題を大きくするだけだから」と「日本的思いやり」で穏便にやり過ごそうとする。この裏には「次にこちら側に何かあったら、お返しに黙っていてくれるだろう」という甘い考えがある。しかし、「法律」に従うとか、「自分」の意思を明確に伝えないと馬鹿にされるだけで、恩など感じない。そんなことをしても、「次にこちら側に何か落度があった」らこっぴどくやられるだけだ。

 「イエス」・「ノー」の問題も同じだが、日本で習慣づいているとすぐには直らない。考え方の相違は、この問題から派生して、色々なところで起こる。文化の違いと分かっていても、自分を確立していないと、日本を離れて、異なる文化の中に入ったら生きていけない。これはバックグラウンドに宗教の違いがあると思う。ヨーロッパも同じだが、キリスト教の国々(同様に、一神教のユダヤ教やイスラム教の国々)では教典が全てであり、これに反するものは全て異端であり異端者となる。従って、キリスト教信者か異教徒かとなり、全てに白黒をつける習慣が身についている。11世紀以降ヨーロッパやアメリカで盛んだった異端審判や魔女狩りなどにそれが顕著に現れている。白か黒か、中間はない。情状酌量の余地はない。個人主義や利己主義が発達しやすい土壌だ。または、共産圏の国のように無神教の社会では、単純に自分の考えや利害関係を主張するだけで、日本流の考えやビヘイビアーは通用しない。

 最近、アメリカ(フランス同様、最悪の個人主義国家だが)に暫くいて、帰国した子女が利己主義丸出しで、何かにつけて自己主張し、状況を全く理解しようとせず、大声をあげるのである。しかし、日本の若者の自己中心的(所謂、自己中)とは異なるようだ。日本の若者達にあるのは無関心で、ある意味で日本の社会に甘えているに過ぎない。


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”遠い夏に想いを”- Click here(ヴィオさんの旅行ブログ) も一読ください。
ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。