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別 れ

  別れはつらい。別れは嫌いだ。親しくなると別れがつらいから、新しい友情は育まないことにしていた。国内にいれば、いつでも会えるという気持があるからまだいい。当時は国外で親しくなった友人には、一度別れたら一生会えないかもしれないという恐怖があった。そんな恐怖にさいなまれるから、外国では知人は出来ても、親友は極力作らないようにしていた。今は外国に行くことは当たりまえで、国内を旅行するよりも気楽だと思われるかもしれないが、40年前ではまだまだ自由に外国に行くという訳に行かなかった。

  5月の中旬に第4クオーターが終り、一応、2年間のアカデミック・イヤーが終了する。学位は諦らめていたから、そろそろ帰国の準備にかかった。もう夏休みが始まる。9月中旬まで日本に帰り、復職すれば2年間の休職は終る。当時修士号(MBA)をとっても国内で何の役にも立たなかった。元の会社に戻れば、相変わらずの一歯車になってしまう。だから、帰国して復職しても会社を辞めてしまう先輩が後を絶たない。大手企業が彼らに期待するのは有名人の子弟と友達になってくることだった。その方が日本の企業にとって将来好都合だから。だから、東部の有名私立大学に留学する者が多かった。私にとっては様々な経験をした方が自分のためになる。私が修士の学位を諦らめた時から、我々は計画を変更していた。東海岸に出て、大西洋を渡り、ヨーロッパへ行くことにしていた。

  帰国の前にやっておかなければならないことが幾つかあった。まず、ブリムホール・スクールに帰国する旨を知らせること。テスター先生には話してあったが、改めて挨拶に出向いた。入学が簡単だったように、辞める時も簡単で、手続きなど何も無い。一応、日本に帰った時に必要でしょうと、チャオの2年間の成績証明書というか、内申書みたいなものをくれた。多分必要ないだろうが、何かあればチャオが2年間アメリカで就学していたという証明にはなる。我々の帰国について、クラスのみんなにチャオが話していなかった。テスター先生が話したのか、出発前に何人かの子供たちが 「さよなら」 をいいに、ファイフィールドのアパートへやって来た。

  その中で、出発の前日に慌ててやって来た金髪の女の子がいた。ドアを開けると、大きな青い目に涙が溢れて頬を濡らしている少女が立っている。
「チャオはいますか」
「いるわよ」
ママがチャオを呼んだ。
「チャオ、日本に帰るの? 私、ぜんせん知らなかった。なんで教えてくれなかったの?」
「エイミー・・・」
「会えてよかった」
と言って2人で外へ出ていった。逢うは別れの始まりなのだ。

  引越にはルールがある。まず、入居時にチェックしておいた一覧表に基づいて、再度、汚れや傷を点検する。不具合がなければ、最初に支払った一ヶ月分の敷金は戻ってくる。翌日は早朝から掃除を始めた。掃除は朝から晩まで一日がかりだった。結構大変な仕事である。我々のアパートには、傷はなかったので、汚れを懸命に落してOKになった。こんなに小さなアパートなのに、ものすごく疲れる。日頃使わない筋肉を使うからだ。

  前日、中古車の3行広告(クラシファイド・アド)を出しに、ミネアポリス・トリビューンに行った。今の車も新聞広告をたよりに購入した。早く売るためには中古車の新聞広告が一番だ。さて所定の字数で広告文を書くのは、決まりきった文句があっても外国人には難しい。おまけに、この前のシカゴ旅行の際に、運転席の足元にポッカリ穴があいてしまっている。正直にそのように書くべきかどうか、出て来た若い担当者に聞いてみた。
「それは不要でしょう。問い合わせがあって、見に来た人に現場で説明すれば、嘘にならないのではないですか」
ニコニコしながら適切に答えてくれる。もっともな話しである。むしろ問題は価格だ。価格は300ドルと決定。約1年前に425ドルで買った車だ。その間マフラーの交換に35ドルかかっている。


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”遠い夏に想いを”- Click here(ヴィオさんの旅行ブログ) も一読ください。
ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。