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運転席に穴が

  次の朝、チェックアウトして、市内を車で廻ることにした。チャオがリンカーンに関心が強いので、市の案内書を見たら、グラント・パークの中にリンカ−ンの銅像があると書いてあるのでそこに行ってみた。銅像の周りにロープや防護板があり工事でも始まるようだった。それから、市内をぐるぐる巡り、ステート・ストリートや周辺の道を運転しているうちに、警察官に呼び止められた。よく標識を見たら、一方通行の道を逆に運転していたのだ。
「免許証を見せなさい」
ミネソタの免許証なのだが、持って行ったきり長い間戻って来ない。署の方に電話しているらしい。東洋人の男と女と子供が乗っている。盗難車の疑いあり? しかし、車はミネソタ・ナンバーだ。やや暫らくして、警官は戻ってきた。
「一方通行違反だが、地方からきて様子が判らなかっただろうから、罰金は免除するよ。気をつけて行きなさい」
チケットを切られるのは覚悟していたから、この優しい警官に礼を述べて立ち去った。

  さて昼食はどうしよう。
「街の西の地区へ行ってみるか」
この地区は黒人の多いところで有名であった。当時、ニューヨークのブロンクス地区は黒人以外の人種は一歩も入れないと言うほど暴力・麻薬が横行する街だった。シカゴのはそんなことはないと言われていた。マクドナルドに入った。勿論、店の中は黒人ばかり。一斉に店内から視線の集中砲火だ。「何でお前たち黄色人種がこんなところに来るのだ」と言わんばかりだ。ハンバーグを食べていても、怖いとは全然思わないのだが、何となく落ち着かない。食べ終わったら、そそくさと店をでた。戦後ミシシッピ川をニューオリーンズからシカゴまで黒人が大勢やってきて、シカゴはブルースの本場になった。ちょっと気になっていたいたのだが・・・

  帰りは90号線をまっすぐ走った。90号線でもミネソタに戻れるが、南のロチェスター付近に出てしまい遠まわりだ。午後から雲行きが悪くなってきた。マディソンで94号線に入る頃には物凄い土砂降りになり、視界も悪くなってきた。車の調子が良くないので、少しスピードを落として走っていたのだが、そのうち 「ドスン」 という鈍い音がした。自動車に穴が開いたのだ。運転席の足もとだ。ゴムの室内カバーが敷いてあるので、水は吹き上げてこないが、破損がどの程度か判らない。

  オー・クレールという洒落た名前の町まで来た。オー・クレールとはフランス語の地名で、英語ならクリアー・ウオーターとでもいうのだろう。ここのハイウエイ沿いのテラス・ハウスで休むことにした。この頃までには雨も止んで青空が出ていた。車を出て、外側から車の下を覗いたら、直径10センチくらいの穴が見えた。まだ製造してから五年半しか経っていない車だ。いかにミネソタの冬の融雪剤の散布量がすごいといっても、この頃のアメリカの車造りが如何に悪かったかという見本みたいなものだ。アンダー・コートがいい加減なのだ。アメリカは車検がないからこんな車がわんさかある。まあ運転者責任で直さなければならないだろう。

  帰宅してから近くのガス・ステーションで車の調子を見てもらった。リキャップしたスノータイヤを冬に買って履いていたのを、4月の中旬に普通のタイヤに戻してあった。交換の時に、タイヤの重心をスタンディングで測定してもらってあった。だが、新米整備士できちんと測定出来ていなかったのだ。スピニング・ウイール・バランシングで測定しておけば問題はなかったであろうに。重心が狂っているタイヤは高速でバーストすることがあるから要注意だ。

  オー・クレールのテラス・ハウスは落ち着いていて、洒落ている。日本の高速道路のパーキング・エリアにある猥雑な店とは違って、六本木にでもありそうな大人の雰囲気があった。

  ミネソタはもうすぐだ。ハドソンの町を過ぎて、セント・クロイクス川を渡ると、そこはミネソタだ。雨上がりの夕焼けはことのほか美しい。我が家に着いたのは、夜の8時頃だった。


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”遠い夏に想いを”- Click here(ヴィオさんの旅行ブログ) も一読ください。
ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。