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和食レストラン

  さて、車まで戻って、マクタビッシュの家に向かう。ミシガン通りを北に進む。シカゴ大火の記念碑が建っている。今から130年前の1871年に火事が発生した。シカゴは風の強い街だから、みるみる火の手は広がり街の大半を飲み込んだ。南風だったのだろう。現在、南側にあるシカゴ消防局のあたりが出火もとらしい。1万7千の家屋が灰塵にきし、10万人が焼け出された。当時としは、すざましい大火だったらしい。

  シカゴ川を渡る。ここには70年代でも話題になった高層アパートがたっている。茶筒のように円筒形で、下半分の階が駐車場になっており、上半分の階が居住スペースになっている。

  その先を10ブロックくらい行くと、左側に日本食の食堂がある。和食のレストランというよりも、日本の田舎の駅前食堂に酷似している。木造の引き戸をがらがらと引いて中に入るような趣きなのだ。気にいったので店に入ると、日本の蕎麦屋のように中は薄暗く、奥のテーブルでは日本男児とでも言えそうな元気のいい若い角刈りの男が、盛んに飯を頬張っているではないか。店の中の造作も日本的な古い店と変わらない。タイムスリップしたような不思議な感覚に襲われて、その場に立ちすくんでしまった。

  ぼんゃりとして、テーブルに座ると、白い前掛けをしたおやじが出てきて、メニューを渡してくれた。「まぐろの刺し身」と書いてあるではないか。書いてある値段は当時の貨幣価値からしても安い。シカゴは海から遥か遠方である。「よし、まぐろの刺し身にしよう。それと、白い飯と、味噌汁と、焼き魚がいい」とおやじに告げる。まるで、東京にでもいるみたいな感じだ。まぐろの刺し身などミネソタでは口に出来ない。出されたのを見て驚いた。皿に2段重で、まぐろの刺し身が乗っている。見てくれなどは一切お構いなし、ただ切っただけという一皿だ。3人分ということで、大きな切り身が山盛りで出て来たのだ。千切り大根の付け合わせも、わさびも一切ない。ただまぐろだけである。日本でなら、駅前食堂でも、まぐろのお刺し身定食をずっと体裁良く出すだろう。白身の焼き魚も揃って昼飯になった。チャオはまだ小さい。日本を出たのが5才だから、刺し身などの生魚は殆ど口にしていない。だから、チャオには白身の焼き魚がいいだろうと思ったが、刺し身から手をつけて、もくもくと食べている。息つく暇も無いくらいの勢いで食べている。思わず、ノッコと目を合せた。 「どうだい、美味いかい」 「うん、美味い、美味い」 と言って、また、もくもくと食べ続けた。 「やっぱり、チャオも日本の子供なんだなー」妙に関心してしまった。

  さて、マクタビッシュの家はシカゴの北のレーク・フォレストという所にある。レーク・フォレストに行くには、シカゴからミシガン湖沿いに25マイル(40キロ)くらい北上する。42号線で1時間弱かかる。レーク・フォレストの市街地はかなり高級な感じで、洒落た街である。

  彼等の住宅は郊外の落着いたところにあり、ゆったりした家だった。祝日ということで、マクタビッシュ夫妻と子供たち全員がいた。チャオも久しぶりで、すぐに皆で庭へ飛び出し遊んでいる。主人のジョンはシカゴで企業の社内弁護士の仕事を得たという。70年代の初めはアメリカは不況で少しでも、有利な職を得られたのはラッキーだった。末娘のマーサはヴァイオリンを習っている。日本の鈴木メソッドがアメリカにも進出していた。彼女もシカゴの鈴木メソッドの教室に通っているといっていたが、彼女ははにかみ屋で決して私たちの前で弾いてはくれなかった。午後のお茶を頂いて帰ることにした。もう多分会うことはないと思う。後年仕事でシカゴを訪れたが、レーク・フォレストまで会いに来るわけにはいかなかった。この日はホテルに戻って、翌日の昼ごろシカゴを離れる予定にしていた。


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”遠い夏に想いを”- Click here(ヴィオさんの旅行ブログ) も一読ください。
ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。