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岩城宏之さんの思い出

  1971年の冬、今は亡くなられたが、岩城宏之さんがミネソタ・オーケストラを振るとう話しが伝わった。演奏会の当日ノッコは風邪を引いて来れなったので、私は一人で当時の会場だったノースロップ・オーディトリアムに出かけた。ピアノはゼルキンの息子のピーター・ゼルキンで徳利の黒いセーターにグレーのジャケットスタイル。岩城宏之さんの指揮ぶりは、日本人特有の感情溢れる演奏で、演奏会の終わりにはスタンディング・オーベ―ションでコールされ大盛況に終った。

  セントポールのミシシッピー川沿いのケロッグ通りにあるYWCAで岩城宏之さんの歓迎会が開かれた。日本人主催のパーティでは、どうしても日本人だけ集まって、他の国の人とは会話がないと言うことが起きる。この時も、一人の女子高生が参加していた。彼女は高校生の交換留学生のプログラムでミネソタの田舎町に来て、アメリカ人の家庭にホームステイしていた。英語を学ぶには最もいい環境である。日本人だけで集まって話しをしているところに、彼女がやって来た。
「皆さん、何で日本人だけで集まっているのですか。もっと、アメリカ人の人達と話しをすればいいのに」
こう言われても、返事の出来る者は誰もいなかった。どうしても、久し振りに会った日本人の友達と話しに夢中になる。改めて、自己紹介をしながら、初対面のアメリカ人に話しかけるのが面倒だ、というのが本音だろう。

  パーティも盛況の内に終り、岩城さんは宿舎のミネアポリス・シェラトンに帰っていった。この時、彼に誘われて日本人数人が彼の部屋を訪れ夜中まで雑談した。全く楽しい思い出であった。当時、彼は海外公演を精力的におこなっていた。アメリカにも単身やってきて、東部から西海岸まで、オーケストラの客員指揮をしていた。中西部のミネソタまで来たのだが、ミネソタ・オーケストラとは余り聞かないオーケストラだったようだ。勿論、ミネアポリス交響楽団のことは知っていただろうが、ミネソタ・オーケストラの実力についてどの程度知っていたは分からない。ミネアポリス交響楽団(Minneapolis Symphony Orchestra)がミネソタ・オーケストラに名称が変わったのが1968年だから私も知らなかった。

  彼はいろいろ面白い話しを聞かせてくれた。外国を歩いて客員指揮をすることが多いと、当然、初めてのオーケストラと最初の練習をすることになる。その際の指揮者と楽団員との駆け引きとか、上手く行った時の信頼関係の出来具合とか教えてくれた。特に若い頃など、初めてのオーケストラを振る時は、団員が見知ぬ指揮者を試すことがある。管楽器など最初は音を違えて演奏して澄ましている。指揮者も気がついても素知らぬ顔をして振り続ける。すると、また違う場所で違う音を吹く。今度は、二ヤッと笑い返す。3回目に同じ事をやったら、演奏をとめて注意するのだそうだ。新米指揮者の苦労がしのばれる。しかし、新しい客員の指揮者が素晴らしいと、団員が乗ってきて最高の演奏をするのだという。ウイスキーをだしてきて、ホテルの氷をバスケットに詰めてきては、水割りにして、ちびりちびりやりながら夜遅くまで雑談が進み、大変楽しかった思い出である。

  岩城さんはミネソタ・オーケストラは思いのほか素晴らしく、全米でトップ8には入るだろうと言っていたのを思い出す。アメリカで有名なオーケストラといえばニューヨーク、フィラデルフィア、ボストン、シカゴ、シンシナティなどがある。ミネアポリス交響楽団の最盛期は、私が個人的にみて、1923年から1960年までの37年間であろう。創設以来18人の常任指揮者がいるが、2代目から5代目にかけては、アンリ・ヴェルビュッケン、ユージン・オルマンディー、ドミトリー・ミトロプーロス、そしてアンタール・ドラティーという往年の壮々たるマエストロ達がいるのだ。この期間は、ミネアポリス交響楽団のレコーディングが頻繁におこなわれ、名盤も実に多い。その後79年から86年まで、「アマディウス」でお馴染みの英国のネヴィル・マリナーが、スタニスラフ・クロヴァチェフスキの後にミネソタ・オーケストラに常任指揮者として迎えられたが、どうも評判が芳しくなかった。特に、何もしなかったためにオーケストラのレベルが落ちたということが理由らしい。


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”遠い夏に想いを”- Click here(ヴィオさんの旅行ブログ) も一読ください。
ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。