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アメリカのテレビ

  現代では、人が生まれた時からテレビがあるのが当たり前だ。テレビの無い生活は考えられない。1960年代にカナダのマーシャル・マックルーハンがメディア論を展開して、「メディアはメッセージである」と主張し賛否両論を巻き起こした。メディアを「ホット」と「クール」に分類し、テレビはホット、映画はクール、本はク−ルなどとした。だが彼の説は正しかったように思う。放映する内容が社会に影響を与えるのではなく、テレビの存在自体が人々の行動様式を変えて行く。当時は理解されにくかったと思うが、時代の推移を見ていると彼の説は正しかっと思わざるを得ない。正にゲームや携帯など現在も彼の主張は証明されている。

  当時の人気番組といえば、60年代の終わりから始まったセサミ・ストリートがある。NHKの教育番組(今では放映されていない)でも放映されている。ツインシティではKTCATVの教育番組で放送されていた。最初にこれを見た時は、余りにも短いエピソードというか、シーンというか、場面が前後の関連なしにどんどん変わるので、落着いて見ていられなかった。正直言って、嫌いな番組だった。子供の集中力は長続きしないという考えらしい。しかし、チャオは喜んで見ているし、時には興奮気味でもある。確かに子供の集中力はそんなに長続きしない。出演者もマリアやミッチー・ミラー合唱団にいた歌手のボブ、今は亡き新聞スタンドのクーパー(フーパー)じいさん。人形はアーニーとバート、クッキー・モンスター、ビッグバード、オスカー、カエルのカーミット、サイモンとグローバー、それとカウント伯爵にリポーターのやさ男くらいだが、子供達は食い入るように見ていた。

  当時、教育にテレビを使うこという発想は素晴らしく、効果は絶大だった。普通、アメリカの親は就学前の児童に読み書きは教えない。セサミ・ストリートの成功は革命的であった。教育の機会を平等に国民に与えるという信念から作られたのだ。しかし、『本当にチャンスは平等に行き着いているのだろうか』という問い対する答えがやがて帰ってくる。放送の効果は全く逆の結果を示していた。貧富による学力の差が開き始めたのである。貧しい家庭にはテレビがなく、テレビを見る機会もない。今では考えられないことだが、テレビの普及率が60%だとして、残りの40%の家庭は貧しいところが多いのである。

  児童番組といえば、この他に『ミスター・ロジャースのネイバーズフード』(ロジャースさんの隣人達)があった。この番組はロジャースさんが出てきて、いろいろと面白いこを紹介するのである。家庭の雰囲気もあり、落着いた伝統的な番組である。セサミ・ストリートに比べると少し年齢の高い子を対象にしている。

  ドラマではやはり『メアリー・タイラー・ムアー・ショー』が全国的人気番組で、ミネアポリスのテレビ局を舞台にしているので人気が高かった。とは言うものの、この番組がミネアポリスで撮られることはなかった。人気が高いために、ミネアポリスで撮影すると、撮影場所が判ってしまい、一般大衆が押し寄せて来て整理がつかなくなる。そんな訳で、時たま雪景色が挿入される。

  また、全米に放送されている番組としては、『トゥナイト・ショー』が人気があった。ジョニー・カースンという、ダンディな男が司会者であった。ゲストを呼んでいろいろ話しを聞くだけなのだが、司会者のジョニー・カースンの個性がよく出ていて、とても面白く、人気があった。

  テレビにはテレビ・コードというものがあり、テレビにおける表現を規制している。表現の自由は憲法が保証するが、テレビといえども公共のメディアだから、公共の利益に反してまで、何でもテレビに出してもよいという訳にはゆかない。公共テレビでは女性の裸なども日本のように野放しでない。一般のテレビでは駄目なのである。何故なら、ポンとスイチを入れるだけで、誰でも見られるからだ。見たくない番組をも見てしまう。ケーブルテレビなどは、個人の希望で加入するのだし、自分の見たいジャンルを選ぶことも出来るから可能である。

  サブリミナル・コマーシャルなどは当然禁止である。例えば、映画の予告編等に数秒に1コマづつポップ・コーンの画面を入れる。見ている人にはノイズ程度にか見分けられないのだが、見た人々はポップ・コーンを買いもとめる。結果として、ポップ・コーンの売上が伸びる。聴衆の購買意欲を無意識に刺激したことになる。これは倫理の問題である。

  視聴者がうるさい、というのもアメリカの特徴だ。人種や宗教が多様だから、すぐ反応が現れる。日本のように自分達は無宗教で、同質的民族などと信じていると理解出来ない。


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”遠い夏に想いを”- Click here(ヴィオさんの旅行ブログ) も一読ください。
ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。