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ツインシティ

  ミネソタの人口は現在500万くらい、当時は380万だった。面積は日本の本州と同じくらい。ツインシティの都市人口はミネアポリスで40万くらい、セントポールで30万くらい。周辺のベッドタウン人口を含めると当時は200万くらい。全米で16番目くらいの都市となる。ミネソタの人口の半分以上がセントポールとミネアポリスとその周辺に住んでいたことになる。面積の5%は川や湖を含め淡水が占める。

  ここらでツインシティの街を案内してみよう。ツインシティとは言葉の通り双子の街を意味する。メジャー・リーグのミネソタ・ツインズも2つの街を代表している。ブダペストのように(実は行ったことがないのだが)、ドウナウ川をはさんでブダとペストの街が一緒になっているようなようなものである。正方形の街にミシシッピー川が左上から右下に蛇行して流れる。川が街を東西に二分して、西がミネアポリスで東がセントポールとなる。

  『ツイン』と言っても、街の性格や街の生い立ちからして違う。セントポールは林業から発達した街である。セントポールは州都であるから、州政府の機能が集まった街である。一方、ミネアポリスは農産物の集積地として発展した街だから、製粉業などの商業が発達した街である。ピルスベリー社やジェネラル・ミルズ社などの製粉業が多い。ミネソタは中西部に属しているが、セントポールで東部が終わり、ミネアポリスから西部が始まると言われるほど両市は性格が異なる。東京と大阪が隅田川か淀川を挟んで在るようなものだから、両市はいたって対抗意識が強い。

  ツインシティは、最初インデアンしか住んでいない平和なところだった。そこへフランス人がセントローレス川を上って、北からここにやって来た。17世紀の終わり頃、ヘネピンというベルギー人の神父がミシシッピ川の流れに段差のあるところに来て、この10メートルばかりの低い滝にセント・アンソニー・フォールと名前をつけた。そして、19世紀の中頃、この滝を水車の動力源にしてジェネラル・ミルズ社が製粉工場をつくったのがミネアポリスの始まりである。この滝があるために、ミシシッピ名物の外輪船はこの滝より上流に行けないので、セントポールどまりである。今でも、外輪船「デルタクイーン」でニューオリーンズまで8日間かけて行くことができる。西部開拓時代のようにのんびりと船旅は心踊る経験だろう。

  ミネアポリスより上流に行くためには、英国などで見られるロックという方式で、今では小型船が通れるようになっている。ミネアポリスにあるミシシッピ川の「オブザベーション・デッキ」に行って見るとこの様子がよくわかる。

  『ミネアポリス』という地名はインデアン語と古代ギリシャ語の合成語である。『ミネソタのポリス(都市)』即ち、ミネソタの街という意味である。ミネアポリスの街は碁盤の目のように出来ているので、札幌生まれの私には大変分かりやすい。ただし、札幌同様一方通行が多いから注意が必要だ。街の目抜き通りはニコレト・モル通りといって、南北に13ブロック走っている。ここの通りは、その筋では特に有名な通りである。何故有名かというと、都市の交通はどうあるべきかという問題に、1960年代に一つの答えをだした通りである。

  二コレット・モル通りには、公共交通手段であるバスとタクシーとパトカー以外は通さない。従って、車道は往復2車線の狭い道だ。車道を狭くした分、歩道が広くなり、歩行者が優先的に歩けるようになった。車道も直線でなく、まるでヘビの通った後のようにぐにやぐにやと折り曲がっている。バスもタクシーもスピードを出せない。街路樹を植え、バスの停留所を景観に合せて屋根つきにする。雨や雪や寒さへの配慮である。だから、通りが広くてゆったりしている。1丁目から13丁目まであるので、全長1マイル(1.6キロ)以上の通りである。この通りはその後の世界各地における市街地交通のあり方に大きな影響を与えることになる。

 この通りはミネアポリスの目抜き通りだから、デイトンなどのデパートや、J・Cペニー、ドナルドソンの店があり、ダイム・ストアの元祖ウールワースなどが並んでいた。人通りは日本の繁華街に比べると極端に少ない。というのは、みな郊外のショッッピング・センターに行ってしまうからだ。デイトンも各ショッピング・センターに出店している。だが、二コレット・モルの店は古風で温かみのある内装で私は好きだ。  一般大衆は車で移動するから、第一に駐車場の心配がないこと、第二に市街地のように他の店に行くのに外にでる必要のないこと。第三にスペースが十分あり、子供が遊べることと老人が休めることがショッピングの条件となる。このままでは、車社会の 呪縛を解き放つことが出来ない。


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”遠い夏に想いを”- Click here(ヴィオさんの旅行ブログ) も一読ください。
ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。