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日本と異なる試験基準

  1日の内なら時間に制限がない。お弁当を食べてもいい。辞書も持ち込んでいい。1日中いるのだからトイレにも立つだろうし。何でもありのようだが、当時のミネソタでは運転免許証をとりに来る人は、必要があるから来るのだから、取るための便宜は出来る限り取ってあげるという風に思えた。考えてみれば、時間や、弁当や、辞書などは、別に違法なことではない。英語が判らないということは、殆どハンデにならない。基本的に標識はサインであって、文字が読めなくとも認識できるからだ。それにアメリカで生活してみると判ることだが、運転免許証がないと生きてゆけない。それは『死になさい』と言っているようなもので、それでは公共の利益に反する。だから日本ように落すための試験や制度を設けないし、その制度に群がって利益を吸い上げる業者もいない。だから日本では運転免許証を取るだけで、実際は大変なお金と時間を掛けざるを得ない。ミネソタにも教習所という所があるかどうか知らないが、まず一般の人は使わないだろう。フランスやアメリカには法規のテストを終了した人が利用する個人経営の運転指導事務所みたいな所はある。例の日本人の奥さんも、法規の試験をパスしてから、ご主人を助手席に座らせて運転を練習し、運転試験場で免許を取った。
  さて、法規の試験がパスすると、次は6ヶ月以内に実技試験を受けなければならない。私は既に日本の免許証で運転しているので、次の日に実技試験場に行った。場所は郊外にあったので、車を運転していった。どういう訳か、試験場の入り口は極端に狭い。駅の自動改札口の自動車版といったところだ。私の前にダークグレーのセダンが1台いた。助手席に免許証を持った人を座らせて、受験者が運転しているのだが、この狭い門を通り抜けられない。直進しようとすると、左右の壁にぶつけてしまうのである。ハンドル操作が上手く出来ない。そうこうしている内に、助手席から男が出てきて、運転者と入れ替わった。運転していたのはインド人のようだった。最初からまずいものを見てしまった。気を取り直して、受付で3ドルを払い、待合室で待っていた。インド人の受験者が助手席の男を残して、ダークグレーの自分のセダンに乗りコースへ出て行った。大丈夫かなと、入り口の出来事を思い返しながら眺めていた。
  ウィークデイのせいか、広い試験場に受験者は3人くらいしかいない。私の番になって、係官がきた。自分の車の助手席に係官をのせスタートした。彼はチェック・シートと鉛筆を持っている。車の進路は彼の指示に従う。発進して最初のチェックポイントが交差点だった。ここがチェックポイントだということが、彼の「マイナス6ポイント」という一声で判った。何故6点も引かれるのか。彼の説明によるとこうだ。
「交差点で右を見て左を見たから。自動車は左から来るから、まず、左を見て次に右を見なければいけない」
「それにしても、6ポイントも引くのですか」
「安全が技術よりも優先するのだよ」
もっともな話しである。日本では左側通行だから、右を見て左を見る。習慣になっているのである。坂道発進など坂の途中で停まり、再発進しようとしたら、エンジンが止ってしまった。ノークラッチのツウーペダルの車なので止る筈がないのだが、エンジンを掛けてそのまま発進した。後ろに下がらなかったものの、減点はゼロであった。車庫入れと称する、バックの運転があるが、これも一発で所定の場所に収まらなくとも、所定のラインを外れていなければ何度試みても減点はないという。また、ノークラもシフトも免許証には区別はない。
  要するに、他人を巻き込む交通事故につながるような危険な運転をすると、大きく減点される。日本のように運転技術1本やりではない。運転技術が低くとも、安全に注意しながら運転すれば、事故を起こさないと信じているからだ。これは先に延べた『生きて行くために運転は必要』という理由の他に、アメリカの道路事情が日本よりも遥かにいいことにも一因があるだろ。第一、車線幅がアメリカの方が遥かに広いから運転し易いのだ。それに、今では日本でも交差点で右折車線を設置するのが常識になっているが、すでに当時はアメリカでは当たり前のこと(アメリカでは左折車線)になっていた。それと、日本と規制が異なるのは、交差点で信号が赤で、特別の指示器が無くとも、車が来なければ右折が出来る点だ。
試験のコースを一周して係官が言った。
「合格です」
「有り難うございます。ところで、何点でしたか」
「88点でした」
減点する毎に点数を叫ぶのだが、例の6点以外はどこで何点引かれたのか今では覚えていない。ただ技術点のマイナスは殆どゼロだったと思う。


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”遠い夏に想いを”- Click here(ヴィオさんの旅行ブログ) も一読ください。
ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。