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ミル・ラック

  秋になった。今年の紅葉は余りよくない。木々の葉が黄色や赤になる前に茶色に変わってしまう。自然林の紅葉は桜の開花よりも微妙である。10月下旬に、気がついたら紅葉が終わろうとしていた。薄曇りの土曜日に、北のミル・ラック湖に行って見ることにした。ミル・ラック湖とはミネソタの真ん中、やや東寄りにある大きな湖である。古いインデアンの居留地で、Du Luthがドゥルースの町でインデアンと和平を取り決めた時に、インデアンの人達がこのミル・ラックまで引き下がったのである。現在でも小さいながらインデアンのリザベーションがある。

  朝から曇っていて、時折、雨がぱらつく空模様だ。車は既にブルースのオペルではなく、中古の66年型マーキュリー・コメットである。パワー不足なのだが、車が大きくて重い分だけゆったり走る。少々風が吹いても雨が降っても大丈夫だ。スペリオル湖へ行った時と同じく35号線を北に上る。秋が終りにちかづき、樹木の葉が茶色になった。黄色や緑や赤の畑や野原の景色が続く。その中にポツンポツンと白や灰色や赤の農家が点在する。何か昔の北海道の田舎を思い出させる。ヒンクリーまで前回と同じ道だ。ここを左に曲って45キロほど行くとミル・ラックだ。
  湖の入り口に小屋がある。だが、誰もいない。公園になっているらしいのだが、訪れる人が見当たらない。そのまま車で中に入った。車から出ると、小雨が降っていて少し寒い。小雨の中に白い湖面が広がる。山もなければ、丘もない湖の景色だ。ただ平らなところに水が溜まり、周囲に樹木が立ち並ぶ。樹木の殆どが落葉樹だから、紅葉の真っ盛りに来れば見ごたえがあっただろう。今は、葉も茶色になってしまい、風が吹く度に枯れ葉が舞ってくる。ここは小さいながらインデアン・リザベーションになっており、居留地としては1837年の協定以来の歴史があり、毛皮の交易地だったのでインデアン博物館がある。だが、残念ながら閉まっていて入れない。

  インデアンといえば、秋晴れのある日、ステート・フェア・グランドでインデアンの大会が開かれた。大勢のインデアンが集まり、奇声をあげたり、太鼓を鳴らしたりと、まるで子供の頃に見たジョン・ウエーイの西部劇のようだった。数時間続いただろうか、静かになって、人々が三々五々散らばっていった。そのうち、おばあさんを連れた家族が、外にいた我々に、ゆっくりと近づいてきた。
「トイレを貸していただけませんか、母が我慢できないと言うものですから」
肩幅が広く背丈もある中年の男性が丁寧に言った。
「どうぞ、どうぞ」私達は返事する。
「外で待っているのもなんですから、狭いですが、皆さん中に入っては如何ですか」と4人ばかりの家族を家に招き入れ紅茶を振る舞った。
ミネソタのインデアン社会についていろいろ聞いた。私は、北海道で生まれたから、少数民族には関心があった。アイヌ民族である。我々もアメリカでは留学生とはいえ、少数民族なのだ。
  少数民族には、元々そこに住んでいて征服された人達、北米インデアンとかアイヌのような人達がいるが、今ではその人口が少ない。南米のようにインディオの数は多いが、被支配階級として抑圧されている。世界中には国を持たない少数民族もいる。また、征服者達に連れてこられた人達、例えば、南北アメリカの黒人達などがいる。一方、自ら進んでマイノリティになった人達もいる。移民だ。

  移民の地はアメリカだけはない。アジアなどには中国系とインド系の人達が各地に散らばって行った。19世紀の終りになってから、これらの人達が主流になってきた。そして、彼等の声や無理やり連れてこられた人達の声がだんだん大きくなってきた。居住地を追われ文化的にも破壊された人々、即ち、インデアンの人達の声が再び大ききなるのは80年代になってからである。だが、時既に遅しの感がある。それに間違ったインデアン観を広めたのは、戦後のジョン・ウエィン等が出演する西部劇の映画である。
  どうしても、インデアン・リザベーションに来るとインデアンの話しになってしまう。ミル・ラックを後にした。来る時期が遅すぎたようだ。

  アノカという街で、ミシシッピ川に出た。ここは川幅も狭く、流れも日本の川に似ている。川原に出て、15分くらいチャオと遊んだ。やっと雨もあがって、夕焼けを眺めながら、真っ直ぐ帰路についた。


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”遠い夏に想いを”- Click here(ヴィオさんの旅行ブログ) も一読ください。
ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。