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3M社

  3M社もミネソタで誕生した。1905年に7人の投資家というか、山師というか、が出資してコランダムとういう鉱石を採掘する会社を起こした。ところが、ここで採掘されるコランダムは質が悪くて使い物にならない。3Mの正式な社名である「Minnesota Mining and Manufacturing Co.」にMining(鉱業)という字が入っているのもこのためである。しかし、コランダムとしては粗悪品の鉱石だが、これに見切りをつけなかったのが、さすがに3Mの先人達だった。これを砕いて粒状にし、強力な紙に塗布して、サンドペーパーをつくり上げた。
  これは成功しなかったが(代りに、酸化アルミを使って製品化する)、現在5万種以上あるといわれる3M製品群の根幹をなす技術である。鉱物を均一に粉にする技術とこれを貼り付ける技術である。3Mの大半の製品はこの技術を応用して製造されたものだ。一般に馴染のあるオーディオ・ビデオテープなどもこの技術を使った製品である。でなければ、これらの製品を使うための製品を開発して販売する。3Mのヒット商品はみなこれらの技術を使って造られたものである。「ポストイット」などもそうだが、絶対に他社の真似をしない。真似は価格競争しかもたらさない。自分の基本技術から外れない。常に独自の製品を開発して創業者の利益を得る。現在では、技術のプラットフォームが多くなっているが基本的には同じ幹から枝別れしたものだ。スペリオル湖の近くの3Mのかっての採掘場所は市に寄付されて公園になっているという。

  さて、ドゥルースの街に引き返すことにする。湖岸に沿ってキッチ・ガミという美しい公園がある。樹木が植えられ、赤や白の花々が咲き乱れている。老年の夫婦や、子供連れの若い夫婦がベンチに座って湖水を眺めている。ミネソタにはフランス語の地名が多い。ドゥルース(Duluth)という地名もフランス語からきている。1600年代に、当時フランス領であったカナダから、フランス人の皮商人がセントローレンス川を上り、五大湖にカヌーで乗り出し、ミネソタまで何人かの男達が到達していた。その一人の男の名がDu Luthといった。それまで争いが絶えなかったこの土地に、Du Luthは土地のインデアンと平和的に取引をする努力をする。そんなわけで、多分、彼の名前が地名の由来になったらしい。

  彼はまたミネソタをフランス領とした。ウイスコンシンやミシガンもやはりフランスの毛皮商人がやって来たところ。独立戦争後の1803年に『ルイジアナ・パーチェイス』と呼ばれる取り決めで、それまで仏領だったミネソタを含むミシシッピー川流域(200万平方キロ)を1千5百万ドルでアメリカは購入、合州国に組み込んでしまった。ミネソタからルイジアナまでの中部地帯の広大な地域がアメリカに組み込まれたのである。丁度、ナポレオンの時代で、ヨーロッパでのナポレオン戦争の戦費調達のために、ナポレオンが売ってしまったのだ。全く馬鹿な男で、これがそのままフランス領だったら、それこそ歴史が変わっていただろう。

  それより、もっと面白いことがある。私は行っことがないのだが、ツインシティから北西方面に94号線を200キロくらい行った所にアレキサンドリアという町がある。この町にケンジントン・ルーナストーンという石碑があり、この石に文字が刻まれているという。なんと、文字は10〜14世紀のスカンジナビア語だ。ルーン語は10世紀頃までスカンジナビアなどで使われた古語だ。石に書かれた文字は「我らゴート人8名とノールウエー人22名がヴィンランドから探検にやって来て・・・」とあるそうだ。ヴィンランドとは現在のカナダにあるニューファウンドランド島の辺りらしい。アイスランドからも11世紀頃にアメリカ大陸に船で到来したと記録があるそうだ。コロンブスが到着するのは15世紀だから、それより数世紀も早く極北の地を経由してアメリカにヨーロッパ人が到達していたとになる。

  ミネソタといえば、『風に吹かれて』で一躍ヴェトナム戦争の反戦の旗手になったボブ・ディランを忘れるわけに行かない。ドゥルースから北へ100キロほど行った所に、『メサビ・レンジ』と呼ばれる露天掘りの鉄鉱採掘区が広がっている。ここに、ヒビングという鉄鉱の町がある。町の人口の半分以上が、ヨーロッパからの移民であった。ボブ・ディランはこの町で生まれた。家族は貧しいユダヤ人の移民で、本名はツインマーマンといった。暗い時代だったろう。ミネソタ大学にも一時期在学し、大学新聞の音楽欄を担当していたこともある。ニューヨークに行き、成功の星を掴むのである。ボブ・ディランと、サイモンとガーファンクルが私をアメリカに引き寄せたと言っても過言ではない。ボブ・ディランのブルース調のフォークには一味違った魅力があった。

  ドゥルースの町へ話しを戻そう。ドゥルースの人口は10万人くらいで、ツインシティーに次いでミネソタでは2番目に大きな町だ。日本の本州と同じくらいの面積のミネソタに、人口が1970年で380万人しかいない。ドゥルースの次に大きな町といえばメイヨー・クリニックで有名なロチェスターという町で5万人、既に述べたヒビングは人口1万人くらいで、ミネソタでは5番目に大きな町になってしまう。ドゥルースは港町だから坂が急で、湖の方向へ下って行く。丁度、神戸の街を思わせる。しかし規模的には小樽に似ている。当時の小樽と同じように、ドゥルースの古い建物は朽ち果ててみる影もない。

  帰りに寄った湖畔のインフォメーション・センターで、土木工学部に来ているKさん家族にあった。奥さんと小さな子供の3人で、コモンウエルズ・テラスに住んでいた。これからイタスカ湖に行って帰るという。イタスカ湖とはミシシッピ川の源流となる小さな氷河湖でミネソタの北西部にあるイタスカ州立公園にある。実際はこの小さな湖にミシシッピが流れ込んでいるのだが、どういう訳か『幼いミシシッピ』といわれている。ミシシッピはここを源流として遥か3,770キロも流れて南のメキシコ湾に注ぐ。我々も行きたいのだが、遅くなるのでイタスカ湖は諦らめた。

  また帰りに寄ったウイスコンシンのスピアリアーの町は、ただ広いだけの寂れた町だった。歴史的にはドゥルースよりも古く、フランス人がミンネソタにやって来た頃には、もう数百人の人口があったという。ドゥルースが鉱業港として1980年代まで栄えて来たのと対照的に、ここは農業以外産業となるものがなかったからだろう。


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”遠い夏に想いを”- Click here(ヴィオさんの旅行ブログ) も一読ください。
ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。