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北の湖

  夏休みに入って10日ほど過ぎた。ブルースが突然オペルを我々のアパートに持ってきて夏休みの間貸してあげるという。いくら友達になったとはいえ、車を貸してくれると言うのは親切過ぎる。彼等には2台の車があった。ブルースが通勤に使っている車とロイスが買い物や子供達を連れていくために使う車である。アメリカの生活では2台の車は必需品である。しかし、ブルースは3Mの事務所が近いので天気のよい日は自転車で通うし、雨の日は近くの友人に乗せてもらうから大丈夫と言う。会社まで近道で行っても8キロくらいある。夏の間の健康づりにと言っても、毎日、往復16キロも自転車で走るのはしんどい。親切とはいえ、3台も4台も持っているならいざ知らず、生活必需品を貸してくれるという申し出を、我々は懸命に断ったが、車を置いていってしまった。それで、オペルを有り難く使わしていただくことにした。

  さて、1週間ほどで運転にも馴れた。我々が札幌に転勤して、そこで生活している間は車を運転していた。東京に戻ってから5年ばかりは車なしの生活だった。そして、アメリカに来て久しぶりに車を運転した。ある日、ミネアポリス・キャンパスのミシシッピ川沿いの道を運転していた。車の通らない十字路を左折した。
「左側走っている!」
ノッコが突然叫んだ。
私も気が付いて、あわてて右側の車線にオペルを移した。交通量の多い交差点ではこのような間違いは起こらないのだが、車が一台も見えない交差点では無意識に左車線を走ってしまう。また、コモ湖に出かけた時にも、湖の周りを一周しようと左折したら、カーブの先から突然車が飛び出して来た。こちらが左側を走っていたのだ。回遊道路だから双方ともスピードを出していなかった。それでも咄嗟のことで、左の芝生の方へハンドルを切っていた。これも無意識のなせる業だ。こんなことがあってから運転には充分気をつけた。日本に帰国してすぐに、ノッコとチャオと甥・姪を乗せて車を運転していて、左折したら、今度は「右側を走っている!」と叫ばれてしまった。

  天気のよい一日だった。
「車があるから、遠くに行きたい」
皆の要望に答えて、スペリオル湖に日帰りで行くことにした。セントポールからスペリオル湖までインターステート35号線で約150マイル、約240キロある。往復にすると500キロくらい。ブルースから借りたオペルに乗って、朝の9時前に家を出た。35号線は当時70マイル(110キロくらい)が速度制限だ。風の強い日で、ヴァンタイプのオペルでは車体が軽くて風にあおられる。スピードを上げると尻を振るのだ。速度制限の70マイルまで上げることが出来ない。55マイルか、せいぜい60マイルで走行する。
  ミネソタは山がないかわりに、なだらかな丘陵地帯が延々と続く。日本のように平らな平地だけが農地ではない。丘の起伏に沿ってさまざまな色の畑がつくられている。黄色い畑、緑の畑、茶色の畑、赤い畑。太陽光線の関係か、ものの色が暖色系でしっとりとしている。
  ヨーロッパの色とも違う。ミネソタの色には暖色系で深みがある。私は常々景色は北緯45度を境にして変わると思っている。乾燥した南の景色に比べたら北の国の景色は実に美しい。どんなに譲歩しても北緯40度以北までである。ヨーロッパの自然も作られた自然だが、やはり美しい。同じ深みがあっても寒色系の鮮やかさがある。私の基準からいえば、日本では景色の美しいのは北海道だけとなる。京都など確かに美しいが、私の基準では『箱庭』として造った美しさで、日本本来の自然をミミックして作られた美しさで、日本特有の文化がつくりあげた美だ。

  北に走るにつれて、雑草が茂る草原が広がってくる。ところどころに牧場があり、牛の群れが草を食べている。途中で、35号線を降り、ヒンクリーという小さな村に入っていった。昼食に何かいい店はないかと、ゆっくり走っていると、ハンバーガー店があった。地元の食堂という感じの古臭い木造の店だ。灰色の店の中に入るとカウンターがあり、その中で中年の男が前掛け姿で立っていた。ハンバーガーを頼んだら、直径10センチほどのハムみたいな牛肉の塊をスライスしている。これをフライパンで焼いて、バンにのせ、玉ねぎを刻んで、きゅうりのピクルスのスライスとケッチャプをはさんで出来上がり。けして美味しくはないが、いかにもアメリカらしい食べ物だ。チャオも元気よくかぶりついている。ボリュームがかなりあるから、我々日本人には、充分お腹がいっぱいになる。

  行き交う車もまばらな高速道路だが、道路は整備されている。70マイルというのは、94号線が65マイルだから、交通量が少なく、道路がいいということだろう。直線の多い道だから、運転していると単調になる。太陽が真上に上って来た。もう直ぐドゥルースだ。高速道路脇の樹木の間から右手下方に湖が見えて来た。少し霞がかかっているが、明るい夏の光のなかでスペリオル湖の水面が銀色に輝いている。徐々に道路は下って行き湖畔に辿り着く。家を出てから3時間半経っていた。港といっても港湾施設のある工業地帯のようだ。湖の中に鉄橋がある。鉄の骨組みが優美に湾曲している。この橋はミネソタとウィスコンシンを結ぶ橋で、ウィスコンシン州側はスペリオル(スピアリアー)市になっている。帰りに時間があったら、行ってみようということになり、とりあえずその先へ進むことにした。


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”遠い夏に想いを”- Click here(ヴィオさんの旅行ブログ) も一読ください。
ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。