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イタリア語

  私がイタリア語の授業を取った話をしよう。2年目の春だったが、中級イタリア語会話(講読と会話と伊作文)のクラスを取った。2時間のクラスで週2回あった。先生はイタリアの女性でノラ・マルキといった。イタリア女性では標準的な背丈で、小太りの身体に、丸い顔をしてメガネをかけ愛嬌があった。
  学生は10人位登録していたが、クラスに出てくるのはいつも6〜7人しかいない。クラスで特徴的な生徒は、リチャードという男で、すらりとして、おとなしく、口数が少ない。アメリカの学生には珍しく屋内タイプで、自分でワインやビールを作っている。勿論、趣味だから、ブドウを栽培したり、麦からモルトを作ったりという本格派ではない。アメリカは自分で飲む分は数量に限度はあるが、自分でアルコール飲料を作ることができる。ワインもビールもキットが売っている。簡単な器具さえあれば、これを買ってきって簡単にできるらしい。彼の家に集まってワインの試飲会をやろうと言っていたが、結局、実現しなかった。
  もう一人特徴的な学生といえば、スーザンと言う若い女性だった。彼女も小柄なのだが、よく喋る女の子で、平和部隊の一員として南米に行ったことがあるらしい。何かと言うと、南米をこき下ろすのである。南米の小学校で教えることといえば、その国の歴史上の人物について、何度も何度も声を出して読ませて暗記させること。内容に付いて話し合うでもない、生徒の個性を伸ばすでもない、ただ、同じことを声を出させて読ませ、暗記させるだけだと憤慨している。
「ヴィオは19才だよね」
ある日スーザンが言った。当時私は32才だった。大体、欧米では、日本人は若く見られるのだが、13才も若くみられたのは初めてだ。
「俺は32才だよ。第一、6才の子供がいるしね」
「いや、絶対、19才だよね」
アンダーグラデュエイトのクラスだから歳より若くみられても仕方がない。何を言っても、自分の考えを変えない。とうとう19才で通す羽目になった。
  講師のノラはミラノ出身のイタリア人であった。眼鏡越しに、いつもニコニコと笑みを絶やさない女性だった。一応、テキストはあるのだが、毎回、彼女はイタリアの新聞、例えば、コリエレ・デラ・セーラ紙のような新聞を持ち出して読んでくれる。特に、易しい囲み記事などだが、中級クラスとはいえ、結構難しかった記憶がある。70年代の初め頃は、まだ複写機のない時代だから、おいそれと簡単にコピーは出来ない。時々、イタリア語の作文を書いて提出しなければならない。ペパー・バックの伊英・英伊を買って読んで、何とかA4で4分の3ページくらい書いて行く。この頃は不思議とイタリア語で文章が書けたが、今では駄目だ。イタリア語の発音は日本人にはそう苦労はいらない。特に、英語の発音がある程度出来ると楽だろう。ノラは私が喋るイタリア語の発音はイタリア南部の人達が話すのに少し似ているという。
  私がイタリア語に関心を持って習い始めたのは1967年だった。当時、イタリア語はマイナーな言葉で、音楽かファッションくらいしか用途がなく、NHKの語学講座にもイタリア語はなかった。料理についても、殆どの店でパスタを客の注文があってから茹でるなんてことはなく、いつも、伸び切ったパスタを食べさせられていた。どだい、『アルデンテ』などという言葉を誰も知らない時代だった。そんなイタリア語を一般に教えている場所といえば、東京ではイタリア大使館の付属機関であるイタリア文化会館くらいであったろうか。九段上にあったから、会社の帰りに九段下から坂道を昇って、2年間かよって、カタコトのイタリア語が喋れるようになった。当時、イタリア語を教える先生も少なく、上智大学の神父さんとかイタリアに長く滞在していた中年の女性とか少数の人達しかいなかった。
  ノラは72年の夏にイタリに帰国した。私達は帰路ノッコの短期留学のためにパリに滞在した。パリで3ヶ月を過して、南回りで帰国する際に、ミラノに立ち寄りノラに再会した。ノラは妹さんと2人で立派なアパートの5階に住んでいた。妹さんは大阪万博のイタリア館のコンパニオンとして日本に行ったそうだ。姉妹で国際的な働きをしていたのだ


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”遠い夏に想いを”- Click here(ヴィオさんの旅行ブログ) も一読ください。
ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。