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ウェストバンクの地下

  私は、最初の年、大学院留学生の最低単位である9単位(クオーター制で3科目しか取っていなかったが、3科目以下だと強制送還されてしまう)を取っていたから、これほどには本を読まなかった。テキスト中心だが、レポートを書くとき以外は他の関連書籍や資料を読む余裕がない。アメリカのアンダー・グラジュエイトの学生の中にダブル・メジャーとかトリプル・メジャーといって、日本流にいうと、英文科と心理学科と社会学科のクラスを取って、各々の学士を同時に取得してしまおうという学生が少なくない。必須科目も3倍に膨れ上がるから、単位数も増え、本を読む量が増えるのである。私はサラリーマンを休職して留学したが、学生生活に戻るのに時間がかかった。集中する対象が急激に変わる、これれに対処するのが一番大変で、読書に馴れるまで時間がかかった。
  また、ここのウイルソン・ライブラリーには東アジア図書室というのがある。1ヶ月遅れで朝日新聞が届いていたので、たまには足を運んだ。ここは本館とはかなり趣きが異なり、のんびりとするにはいい場所だった。三島由紀夫の事件も、ここの月遅れの朝日新聞で知った。当時は、東アジアに関する図書とか資料は少ししかなかった。いまでは、充実しただろうと思う。
  ウェストバンクの建物は地下でつながっている。それらのセンターになっているのが地下のカフェテリアだ。冬は外を歩かなくとも、少し遠回りすれば外へ出なくて済む。また、ここは日本人の学生とも出会う所だし、他の国の留学生とも気楽に話しが出来る場所だった。特に、インドとか、スリランカとか、台湾とか、タイとか、韓国などの学生とよく話しをした。
  ここで会ったインド人の学生は宇宙工学を専攻していたが、当時、国へ帰って宇宙工学などの仕事があるのか訝しく思っていたら、勉強が終って学位を取っても国には帰らないという。
「日本語のアルファベットは50個あるのだそうだけれど、本当か」
彼が突然真顔で聞く。
「そうだよ、正確には50個ないけどね。それでも、50音と呼ばれているから」
「インドの言葉も50個のアルファベットで出来ているのさ。日本語と似ていないかい」
「へぇー、ヒンドゥー語だったよね」
私にはインドの言葉といえば仏教の経典の梵語(日本の経典は漢字表記だが)しか見たことがないから、そう言われても、全然解らないのである。私がアイウエオを紙に書き、彼がヒンドゥー語の50音図を書いた。それから、彼が説明してくれるのだが、ヒンドゥー語がどれも同じに見えてしまうので、さっぱり解らない。そのうち時間がきて、別れたが未だにこれが解らない。第一、日本語の音は古くからあるだろうが、標記自体は漢字の省略や片を取ったものだから、インドの言語に似ていると言われても意味がない。表記ではなく、言葉の持つ音自体が似ているといえばそうも言える。大野進氏の日本語・インド起原説を連想させるが、果たしてどんなものか。とにかく、かように様々な人達に会えて変わった話しを聞けるのが楽しい。
  ついでだが、大学以外の図書館にも行って見た。セントポールのダウンタウンには、マーケット通りに小さな広場がある。この広場はライス・パークと呼ばれる大変すがすがしく何もない広場だが、大きな樹の下に置いてあるベンチに腰掛けて見回すと、丁度イギリスのスクエアのように中央に四角形の緑の芝生があるだけの広場なのである。この公園はセントポールの街なかにある公園としては一番古く、ボストンにあるコモン広場のように、歴史上政治的にも文化的にもいろいろ使われて来た由緒ある広場である。ミシシッピ川も近いし、この辺りを散策するのは楽しい。
  この広場の南側に、がっちりとした白い石造りのセントポール・ライブラリーがある。図書館は3階建ての白亜の建築で、デザインはネオヴェネツィア様式だが、シンプルなデザインである。玄関は小さくアーチ状の形をしており、一歩踏み入ると古い調度品類と何か温かみのある雰囲気がある。古い書籍の匂いがして、いかにも図書館という雰囲気だ。蔵書数50万冊余り、今世紀の初めにグレート・ノーザン鉄道の創始者により図書館をまるごと寄贈されたものだ。図書館は暗いというイメージではない。テーブルやソート・ボックスなど、レッドオークの古い木の感じがとってもいい。自動車を持っていなかった頃、ロッドがよく連れてきてくれたが、その古風な様子と雰囲気は今でも記憶に残っている。


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”遠い夏に想いを”- Click here(ヴィオさんの旅行ブログ) も一読ください。
ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。