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セントポール3M

  94号を東に走る。セントポールの街を過ぎてショッピング・センターを通過すると、もう民家がまばらになり、あたり一面は野原だ。左手の野原の真ん中に、ぽつんと建っているビルが見えて来た。
「3Mだ。ちょっと寄っていこう」
ブルースはそう言って、高速を下り、3Mのビルへ車を走らせた。
  今でこそ周りにビルが立ち並びキャンパスのような景観だが、当時は220ビルと呼ばれるメイン・ビルディングだけが広い敷地のなかにぽつんと建っていた。ブルースは3Mのケミスト、即ち、化学技師だったのだ。彼の仕事部屋は220ビルから西の方角にあるいて10分くらいの敷地内にある。このビルは209ビルといって、セントラル・ラボがあった。本部のある220ビルにはショールームがあるのだが、休暇でドアが閉まっていて入れない。
  当時、3Mはオーディオ・テープの企業というイメージが強く、オープン・リールの時代には、東京の秋葉原などへ行っても3Mの製品だけは別格で、別扱いで陳列され、値段も高く、どこの企業も真似のできない品質を誇っていた。話しは違うが、テープといえば、ミネアポリスのアパートに引っ越して直ぐに、向いの雑貨屋さんにセロファンテープを買いに行った時、何と説明すればいいのか迷っていた。
「接着剤が塗ってある事務用に使う透明なテープ」
何とか意味は通じるだろうと説明した。
暫く考えていた店のおやじさんが叫んだ。
「あー、スコッチテープだね」
そして緑の小箱を出してきてくれた。
『スコッチテープ』は3Mの事務用テープの商標名だが、日本での『セロテープ』と同様、すでに一般名になっていてる。3Mは自社の製品名が一般名化することを嫌うが、『スコッチテープ』は日本の英語辞書にも載っている。
 3Mはミネソタ・マイニング・アンド・マニュファクチャリング・カンパニーというのが正式な企業名だが、Mの頭文字が3つあるので、3Mと呼ばれていた。ミネソタの企業といえば、ノースウエスト航空と3Mが有名だが、その他ハネウエルとかユニバックなどのコンピュタ関連企業があった。シアーズ・ローバックなどダイレクトメール企業もミネソタが発祥の地なのだ。
  94号線を更に東に走り、カントリー・ロード17号(今はレーク・エルモ通りになっている)と名の付いた道を左に折れた。当時、この17号線と94号線は立体交叉ではなく、平面交差になっていたから交通量の多い時は注意しないといけない。米国は右側通行だから、特に94号線を17号線に左折するような時は反対車線から来る車に充分気をつけないといけない。近年この道路は高架橋になったが、その代わり94号線の17号出口は閉鎖され、一つ手前の出口で乗り降りしなければならず大変不便になった。
  ここの地域はワシントン郡とよばれ行政区がセントポールとは異なる。ツインシティのメトロポリタン地域には8つの郡がある。ちなみに、そのなかに885の湖がある。ツインシティ地区ではミシシッピーを境界線としてミネアポリスにヘネピン郡があり、セントポールにはラムゼー郡がある。その東にはワシントン郡がある。街の北側がアノカ郡で南側がダコタ郡となっている。郡制度はアメリカに見られる古くからある制度で、特に、州の行政面でよりも、我々には警察制度の一部である保安官、いわゆるシェリフ、と呼ばれる人達の方が馴染み深い。警察制度もFBIのように州をまたがって機能をするもの、州警察、市警察、保安官とあり。軍隊も国軍の他に州の軍隊がある。日本にいた時、交換学生のリックに特に注意されたのは「シェリフに近寄るな」だった。道理に適った行動ではなく、古い因習に凝り固まって乱暴を働く者が多いからというのが理由らしい。特にあの頃はベトナム反戦運動が盛んな頃だったし、学園騒動などがあると保安官と睨めっこになったからだろう。
  94号線を出て7分くらい車を走らせるとレーク・エルモという村に着く。とにかく、家がポツンポツンと点在するだけで、住宅地という感じではない。かといって農地でもない。畑はなく、ただ原野が見渡す限り広がり、林がところどころに点在している。17号線の左側に緑色の2階建ての木造家屋がある。車はこの家に入って行った。ウィークス家だ。1階は車庫になっている。右側の石段を登ると玄関がある。正面から見ると2階家に見えるが、傾斜地に建っているから平屋なのだ。


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ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。