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クリスマスへの招待

  このアパートには、玄関を入って左側の壁に4軒ごとの郵便受けが取り付けられている。日本からの手紙が入っていたし、新聞は毎朝入っていたし、ノッコは雑誌の講読もしていたし、銀行は毎月残高を郵送して来たし、電話料金などの請求書も郵便でこの箱に入っていた。クリスマスの前のある日、ノッコは1通の手紙を郵便受けから取り出してきた。差出人は『ブルース・ウイークス』とある。知らない名前だ。封を切ると、クリスマスの正餐への簡単な招待状が出てきた。これもミネソタ・インターナショナル・センターからの紹介らしい。ヒューセスさんが我々の名前をピックアップしてくれたのだと思う。5才くらいの子供を連れて、日本から来ている家族が少ないせいもあっただろう。チャオが一緒という事実がアメリカでもヨーロッパでも、何かにつけて考えさせられることになった。この手紙が両家族の長い付き合いの始まりであった。
  12月25日はどんよりと曇って、地面のところどころに雪が残っていた。ここも札幌と同じで1月に入らないと根雪にはならない。冬になると平地のせいか、風が強く、また、寒さも札幌の比ではないので、乾燥した雪は風で吹き飛ばされて道路に雪は残らない。12月の上旬と3月の下旬は雪が降っては解けるので、夜間や昼間でも急激に温度が下がるとスリップして危険だ。それ以外は、冬の間中、気温が零度以下になり、雪が解けない。貧乏学生などはスノータイヤを履かずに過してしまう。もうこの時代から、ミネソタではスパイクタイヤが禁止されていたので、スノータイヤを履いていても、やはり冬の運転には注意が必要だった。
  お昼頃に、彼等はやって来た。家族全員で2台の車に乗って迎えに来たのだ。2台というと裕福に聞こえるが、当時は一家に2台は当たり前の時代であった。日本では車を持てない家庭が当たり前の時代だった。小型の車を2台。1台を主人の通勤用に、2台目は妻が使うために持つのが普通だった。主人のブルースは痩せてすらりとして、丸ぶちのメガネをかけ、顎に髭を蓄えている。少し前かがみだが、物腰は静かで、話す時は少しはにかむ。年齢は30才くらいで私より少し若い。奥さんはロイスといい、背はアメリカ人としては低い方である。彼女の英語の発音とイントネーションは少し癖があり、我々には馴れるまで時間がかかった。但し、話し方はゆっくりなので助かる。子供が3人いて長男はベリー、長女はトレーシー、末娘はシェリーという。ベリーは小学2年生、トレーシーは小学1年生、シェリーはまだ4才だった。2台の車に我々も分乗してブルースの家まで走る。1台はオペルのカデット、もう1台も外国製の車だが、後年スバルに変えた。
  セントポールの街へは、一度はバスでクーポンを貰いに、もう一度はロッドに酒屋まで車に乗せてもらって行ったことがある。94号線をセントポールの出口で下りる時に、セントポールの街のスカイラインが一望できる。街はミシシッピー川に向かって下がっている。右手の丘の上にセントポールの地名の由来となったセントポール聖堂が建っている。この街は日本の長崎の姉妹都市なのであった。
  次の年の夏に、セントポールのミシシッピ川の川原で車を運転していた時、夕暮れのヘッドライトに浮かび上がった「NAGASAKI RD」の表示に一瞬驚いた。何んとそれまで長崎とセントポールが姉妹都市とは知らなかったし、河川敷の中とはとはいえ「長崎」が道路名になっていると判ってまた驚いてしまった。長崎にはセントポールの名前が付いた何かがあるのだろうかと思った。
  また当時、高いビルといえば、ラディソン・セントポール・ホテルとかフアースト・セントポール銀行のビルくらいだった。セントポールはミネソタ州の州都だから州政府の諸官庁がある。これらはミシシッピ川と離れて建っており、さらに、小高い丘の上にステート・キャピトルがある。ここの州議事堂は美しさでは全米でも有数といわれる。確かに美しいが、こうゆうものはどうもお国自慢の域を出ないのではないか。ステート・キャピトルに寄って写真をとる。クリスマス休暇で人はいないし、ドアも閉まったままだ。結局、残念ながら、ステート・キャピトルにはその後も入る機会がなかった。
  ステート・キャピトルは古い形のデザインで残っている。州の議事堂は州のシンボルなのだし、ミネソタの人のアイデンティティである。日本人は形に拘るというが、こういうシンボル的なものをどんどん切り捨てて行く。アイデンティティ不在の国である。全ての文化的・精神的な事柄に日本人としてのアイデンティティを求めるのは最も自然だし、ヨーロッパの人達は皆そうしている。だから、ヨーロッパの国々へ行くと彼等の国々のアイデンティティを感じ、誇りと厳しさと同時に暖かさを感じるのである。


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ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。