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クリスマス・パーティ

  すき焼きは作る人がいて、食べる人が懸命に食べる。作る人が食べる人のタイミングを見計らって、さっと肉を鍋に入れる。これが一番うまい。そんな贅沢をしていると、こっちが食べられなくなるから、順繰り肉を入れることにする。子供たちを一列に並ばせて、一人一人小鉢に肉や豆腐やしらたきや野菜を入れていく。次は大人の番だ。テリーとルース、ホルヘにアントニエッタ、ダンとジュリー。この小さいワンベッドルームの部屋に、子供が4人と大人が8人、合計12人いる。こんな小さな部屋に12人全員のための椅子はない。ある者は立ったまま、ある者は床に座ったまま食べることになった。
  小鉢からフォークで食べようとする子供たちが、熱さに「ひえー」と奇声を発している。日本人は熱いものを平気で食べる。胃潰瘍や胃がんが多いのは、熱いものと塩分の多いものを食べるせいだといわれている。どうも、古代の日本人は粥状のものを食器に口をつけて啜っていたらしい。今でも食器を口に持ってゆくし、味噌汁などお碗に口をつけて啜るという習慣が残っている。中国では陶器のスプーンを使うのに、日本には箸の文化は伝来しても、スプーンの文化は取り入れなかった。だから熱いものを平気でじかに食べる。日本の味噌汁と西洋のスープの温度差は歴然としている。西洋では平皿に入れて出し、客がスプーンで食べる頃には適温になっている。日本では味噌汁などを温度が冷めないように底の深い碗に入れる。客は熱いのを冷ますのにふうふう吹くか、適温になるまで待つしかない。
  肉は味がついているから、美味い美味いと食べるが、しらたきは味がしみ込まないし、チューインガムみたいだから噛めないし、飲み込もうとすると、喉につかえて目を白黒させる始末。全員しらたきには降参だ。仕方がないので、我々夫婦が懸命に食べる。すき焼きを食べているのか、しらたきを食べているのか判らなくなってしまう。豆腐は植物性蛋白質の宝庫として、今ではアメリカでも作る人がいるし、菜食主義の健康食品愛好家に食べられてもいる。しかし、当時日本食品は醤油以外殆ど知られていなかった。のりで巻いたおにぎりを食べていると、黒いのりを見て、「ブラックペーパーを食べている」と子供達が不思議そうに眺めている。とにかく、食べられそうなものは全部平らげた。アメリカ人は大食いである。
  食後は、何か遊びをやろうということになった。日本だとトランプでもとなるが、カードはブリッジかポーカーをやるもので、ババ抜きなどという類の遊び方を殆どしない。何もないから、ダンが赤ん坊の玩具を取り出してきて、これで遊ぼうという。日本の大学生だったら、赤ん坊の玩具で遊ぶなどという発想をもたないし、たとえ、したとしも全員が馬鹿にして相手にしないだろう。
  アメリカ人の発想が自由なのはこんなところから来ている。日本人は形にとらわれ、こうあらねばならないと決めてかかる。赤ん坊の玩具は赤ん坊用に開発されたもので、大人は大人用に開発された知的な道具で遊ばなくてはならないと。少なくとも大人はマネーゲームくらいで遊ぶものだと考える。
  例えば、当時、日本人の講師とか、研究員とかが、「アメリカ人の学生は頭が悪い」と冗談ともつかないことを言う人がいた。この場合の『頭が悪い』はどうゆうことを指すのかというと、彼等の『頭の回転』が日本人の望むような指向性、即ち、他人の説でも直に答えとして返ってくるとか、更に、暗算が遅いなどの理由らしい。アメリカはIQ信仰が強いが、一般のアメリカ人は何にでも前向きだから、ビジネスの世界でも、発想が自由で固定観念にとらわれない。だから、変わった新しい製品をうみだすのだ。日本はTQC(改善で少しずつ品質を上げる)に進む時代で、アメリカはイノヴェイション(急激に変化をもたらす)に邁進する時代だった。確かに、「KAIZEN」が英語になりつつあったが、どの程度成功したのか私には分らない。
  この赤ん坊の玩具は使い方次第で、遊びやゲームの本質が現れてくる。この場合は競争心とか闘争心がそれだ。星型や三角形や四角形などの穴を認識して、同型のブロックをはめて行くという子供の認識力向上に役立てる玩具である。1人が時計の秒針をにらんで「ようい、ドン」と声を掛ける。掛け声と同時に、各ブロックをはめて行く。単純だから、秒単位の競争になる。人より1秒でも速くやりとげようと思うと、これがスムーズに行かない。だから、赤ん坊の玩具で遊びながら、子供はオフ・リミットである。どうゆう訳か、ノッコが何度やっても1番速くて1等賞になってしまうのだ。こんな単純な遊びなのに、こんなに盛り上がったのは生まれて初めてだ。このゲームには3才児の認知力で充分。但し、18才の直感力と体力が要求され、24才の戦術が必要であった。


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ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。