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学生仲間のパーティ

  クニーマン(英語ではクは発音しない)というドイツ系の人達ともジュニア・リーグで知り合いになれた。12月のある夜に、クリスマス・パーティーがニーマンさの家で開かれた。まだ車のない頃で、わざわざ向いに来てもらった。家に入ると、そこはコモンウエルズ・テラスの住居とはまるで違っていた。ローソクが階段に一段ごとに置かれ、照明を落とすと、クリスマス・ツリーやの飾り付けが輝いて、いかにもアメリカの家庭のクリスマスという雰囲気がかもし出されていて心憎いばかりである。アメリカに来て初めてのクリスマスだった。2階には小さなバーがあり、飲めない私も、つい誘われるままに、小さなグラスの縁に塩をまぶしたテキーラのソルティー・ドッグを飲んで酔っ払ってしまった。実に楽しいクリスマスだった。
  大学の授業で知り合った友達は余り多くはない。2年目になって余裕が出てきてからは、クロスカルチャー・コミュニケーションのクラス(翌年にアドバイザーになったモランさんが受け持っていた)や中級イタリア会話などのアンダーグラジュエートのクラスで知りあった友達がいる。
  夏のある暑い日、クロスカルチャーの授業に出ている若い学生数人がパーティを催した。場所はユダヤ系アメリカ人学生のジョセフ君の家だった。スネリング・アヴェニューを走って空港近くの丘のうえまで来て、給水塔が見える所に彼の家はあった。集まったのは、ヴェネズエラから来たカルロス君、インドから来たマヤさん、アメリカ人学生のトム君、韓国から来たユジンさん、タイから来たおとなしい女の子や、その他数人いた。
  ジョセフ君は明るい性格でいつもニコニコしている。おじいさんがアルメニアからヨーロッパ諸国を放浪して、1910年代にアメリカにやって来たらしい。ユダヤ系のアメリカ人だ。このおじいさんは麻雀が得意だったようで、ジョセフ君が麻雀の牌を見せてくれたが、日本で使われているのと様子が違う。訊いてみるとルールも少し違う。
  丁度、アメリカはヴェトナム戦争に本格的に介入して身動きのとれない状態だった。不正で正義のない戦争と若者の大合唱が全国に響きわったっていた頃である。ヴェトナムで使用されていたモンサント・ケミカルの枯葉剤に反対するケント大学の学生デモで、介入した警官隊によって参加した学生が犠牲になって亡くなった。徴兵制度も若者に暗い影を落している。彼はもうすぐ予備役に入るのだという。ヴェトナム戦争に賛成している訳ではないが、暗さは微塵もなかった。
  この日はヴェネズエラから来ているパウロ君がパエリヤを作るのだと張り切っている。パエリヤについては、当時、お米の料理だという以外は何も知らなかった。まづ、スープを作る。それにお米をとがないで、さっとスープの中に入れる。煮立って来たところに、今度は、えびや帆立や野菜やサフランを入れて、出来上がるまで待つのである。所がである、出来あがったパエリヤはふっくらとしていない。彼はがっくりきている。 「これは、日本でなら【おじや】といって、水分の多い混ぜごはんだ。そう思って食べれば大丈夫さ」
と慰めともつかない言葉を吐いてしまった。
  それからお遊びで取った中級イタリア語の先生にノラ・マルキというイタリアから来ている女性がいた。当時、日本で一般人がイタリア語を学ぶにはイタリア大使館の文化部で教えているイタリア語のクラスに行くしかなかった。アメリカに来る前の2年間程そこでイタリ語をやっていたから、少々は心得があった。彼女は強い近視のメガネをかけ、小柄で、小太りだが、笑うと愛嬌のある表情になり、結構甲高い声で和気あいあいと楽しく授業をする人だった。アメリカからの帰途にフランスで3ヶ月滞在し、イタリア経由で帰路に就いた時、ミラノの彼女のアパートに立ち寄った。妹さんと2人で暮らしていた。妹さんは大阪の万博のとき、イタリア館のコンパニオンとして大阪に派遣されたそうだ。同じ頃姉妹は西と東に出向いて活躍していたことになる。


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”遠い夏に想いを”- Click here(ヴィオさんの旅行ブログ) も一読ください。
ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。