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ミネソタの友人達

  「何故ミネソタ大学を選んだのですか」
アメリカ人に会う度にきかれた。
  一瞬、戸惑ったが、次のように答えることにした。高校2年の時に、英語の先生がアメリカに留学した。口の悪い先生で、生徒のことを低能児呼ばわりだった。だが、何となく憎めない先生で、課外授業でフランス語を教えていた。そんな先生が1年経って帰って来た。アメリカの中西部、ミネソタ州の州立大学に行っていたと言う。その時の私には、ミネソタといえば映画『ミネソタのたまご売り』のジルベット・コルベールの愛嬌のある顔しか思いつかなかった。
「アメリカ英語をやるなら、何といっても中西部、しかもミネソタ大学はこの点では優れている」
盛んに自分の行った大学の宣伝をした。
  それから、15年経って、留学しようと思いついた時に、真っ先に記憶に蘇ったのはミネソタ大学だった。東部の大学は有名私立校が多く授業料が高いし、日本人も多いに決まっている。西海岸の大学はやたらと日本人が多いだろう。中西部で、授業料が安くて、日本人がいなくて、良い学校で、全米のトップ20に入っているような大学では、ミネソタ大学かウイスコンシン大学がいい。これがミネソタ大学を選んだ理由だった。
  1年目の秋に、日本人会が開かれた。会場は大学のコフマン・ユニオン(学生会館)だったと思うが、結構な数の日本人が集まった。ミネソタには移民の一世や二世の人達、アメリカ人と結婚してミネソタに住んでいる人達、留学生達などで2千人以上の日本人がいた。私にはこの数だけでも大変な数だ。日本人は多くても100人くらいだろうと想像して来たが、全くの誤りだった。ツインシティの人口が、両都市合わせて都市部で70万、周辺のベッドタウンを入れて140万くらいで、全米14〜15位の都市である。日本人は1970年現在で1,981人いるし、ミネソタ州全体では2,603人となっている(ミネソタ大学日本人会編の『ミネソタ生活の栞』―1977年版―による)。それでも1%位しかいないのだから、100人とは思い違いもはなはだしい。しかし、何にもない農業都市だから都会嗜好の強い日本人がいる訳はないと思うのは考え過ぎだろうか。日本人会には100人ほど出席していたが、これらの日本人とはその後も没交渉になってしまった。
  ミネソタ・インターナショナル・センターで働いているヨシコさんには色々お世話になった。ヨシコさんは日本人の中年女性だが、アメリカ人と結婚してミネソタに住んでいた。チャオを連れてセンターによく遊びに行った。後で述べるが、ここにはホスト・ファミリー・プログラムというのがあり、ブルースの家族と知り合ったのも彼女の紹介らしい。
  その他、セントポール・キャンパスの前で洗濯屋を開いているハンダさん。ここのおじいちゃんとおばあちゃんはその昔和歌山からきた移民であった。ここの店にはウールなど家庭で洗濯できない物をお願いに行ったものだ。
  教会で、戦争花嫁の日本人女性と知りあって、その後も交流が続いた人もいるが、戦後、戦争花嫁で来た人は、白人社会に閉じこもって日本人に会いたくないと言う人が結構いたようだ。つらい思いをして来たのだから、そっとしておいてあげるべきだと思って、会わないようにしていた。
  日本人会とは関係ないが、ミネソタ・インターナショナル・センターのもう一つのプログラムにジュニア・リーグというのがある。ミネソタに在住している外国人(特に学生や研究員や講師などの奥さん)のための交流団体である。何故ジュニア・リーグと名前が付いているのか判らないが、これはご婦人達のための団体なのだ。
  これを通じて知り合いになった人達は多い。特にノッコはアメリカに来ても、最初のうちはフランス語の独習をしていたから、この会合でフランス人の友達ができたのは大助かりだった。モニック、マリー、ジャニーヌなどの人達がいた。
  モニック夫婦とはその後も手紙のやり取を行っている。1990年にフランスを訪問した時に、レンヌのモニックの家に一泊して旧交を温めた。我々がレンヌを訪問した時には、レンヌの大学の学部長をしていた。ミネソタにいた頃とは、打って変わって、白髪もちらほら見えるかっぷくのいい教授になっていた。


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”遠い夏に想いを”- Click here(ヴィオさんの旅行ブログ) も一読ください。
ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。