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テラスの友人達-2

  ルースの上の階にはヴェネズエラからきたアントニエッタの家族が住んでいる。亭主のホルへは獣医学部の大学院で勉強している。彼は余り喋らずおとなしいが、女房のアントニエッタは桁外れに陽気でよく喋る。太っているので堂々としているが、痩せていたらブルネットのなかなかの美人だろうと思う。アメリカに来るまで英語は全然出来なかったそうだが、近くの語学学校に通って英語を勉強していた。1年ばかりしたら、英語の発音はスペイン語訛りだが、よく喋れるようになった。ここに来た日本人の奥様達もがんばっているが、アントニエッタの上達振りにはかなわない。とにかく、お喋りな女性は天性のリングイスト(語学の達人)であることの見本みたいである。彼等の一人息子にウイリアムという子がいた。何故ウイリアムと英語風に呼ぶのか知らないが、多分スペイン語の名前の英語読みなのだろう。このウイリアムは更にケブンより年下なのだが、ケヴンとよく遊んでいた。ホルヘは新車ではないが、かなり新しいヴェガを持っていたから結構裕福なようだった。このあたりでは一番立派な車だった。
  彼らの向いの部屋にアンディといってドイツ系の背の高いアメリカ人夫婦が住んでいた奥さんはアメリカ人としては背が低く溌剌とした女性でケイティとい、2人とも金髪だった。息子のマイケルは2才くらいで、この子も金髪だった。アンディはこの居住地区の代表をしていた。翌年の夏のステート・フェアに、コモンウエルズ・テラスの駐車場を貸し駐車場にするアイデアを出したのも彼だった。こうして得たお金をストアレジの修復代にとテラスに拠出したのだ。ところで、ノッコがほんの短い日数だったが、マイケルのベビーシッターをやったことがある。他人の子供を預かるのは初めての経験だったから、ものすごく気を遣ってしまったと言っていた。とにかく、マイケルはキヨトンとした子供でとても可愛い。
  この2つの棟から少し離れたところに、別のワン・ベッドルームの棟が建っている。ここの2階にダンという、前にも書いた男性のアパートがあった。ミネソタ大学の音楽学部の学生で、専門楽器はギターのようであった。アメリカの大学で「University」と呼ばれるところは、本当に総合大学で、あらゆる学部と科目が揃っている。日本では、音楽は音楽専門の大学、絵画はやはり専門の大学に行かなければならない。例えば、語学などでは教える言語の数が何十ヵ国語に及ぶから、日本みたいに外語大学に行かなくても学べる。彼の女房はセレストといった。彼等にはエリックという子供がいた。ただし、チャオたちと遊ぶにはまだ小さい。セレストも鍵盤楽器を弾くのだが、彼等の部屋に白木のチェンバロがある。チェンバロはピアノの前身みたいなもので、古楽器だから普通楽器の表面に赤や緑の色を塗るのだが、これは白木である。
「600ドルのキットを買って、組み立てたのさ」
こともなげにダンは言う。DIYの国、アメリカだけある。こんなものまで自分で作って、楽しめるのだからいい国である。
  コモンウエルズ・テラスの北の地区に、フィリップというフランス人がワン・ベッドルームに住んでいた。彼は農業経済の修士課程に通っていた。奥さんはモニックといい、英語の発音はフランス訛りがひどくて判りづらかった。2人にシャンタルという4才になる女の子がいて、この子はものすごくおしゃまなであった。同年齢のアメリカの子供とどこか違うのである。
  フィリップはフランス人の男性だからもてた。ラテン系のヨーロッパ人特有のすらりと細身で、髪は当時のヒッピー風に長髪だ。フランス語のアクセントで英語を話すからいたってチャーミングに響く。モニックは黒髪で、フランス人としてはおとなしく、控えめで、物静かである。余りにフランス語の訛りが強い英語を話すので、ノッコは英語よりフランス語で話してくれた方が意志の疎通が出来るといっていた。
  1990年にフランスへ旅をして、ブルターニュの彼等の家に泊まったが、丁度、シャンタルがパリから帰宅していて会うことができた。既に、パリ大学の学生になっていた。色々話しをしたが、多分、彼女にはミネソタ時代の記憶は殆ど残っていないと思う。


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”遠い夏に想いを”- Click here(ヴィオさんの旅行ブログ) も一読ください。
ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。