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アメリカ文化

  最近はカタカナ文字が目茶苦茶増えてきた。特にファッション誌などの電車の中吊り広告では50%以上がカタカナ文字である。同じ意味で日本語があるだろうにと思う。日本語で簡単に表現できない言葉ならまだしも、カタカナ文字の方が洒落ているからというのではおかしい。そのうち、漢字がカタカナ文字に置き換わって、カタカナとひらかなの文章が出来上がるだろう。カタカナ文字は、いろいろな国の言葉もあろうが、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語などヨーロッパ語族が殆どだろう。カタカナ文字には日本語特有の同音異義語が極端に少ない利点がある。これも案外いい方法かもしれない。その英語でさえ、ギリシャ語、ラテン語、フランス語の流入ぬきには成りたたない。しかし、これで日本語が混乱したからといって、フランス政府が広告にフランス語以外の使用を禁止したみたいに政府が介入して欲しくない。当用漢字を決めること意外何一つ出来ないのだから。混乱が起きようと、自然に任せておいた方がよい。言葉は生きているのだから。
  一人称代名詞が英語なら、「 I 」(私)で済むことが、日本語は無数にある。その度に使い分けるのだ。だから日本語は奥ゆかしいなどという手合いが結構多いが、世の中はどんどんグローバル化し、判断基準も変化し、状況に合せて使い分けるなどということはそぐはいし、特に若者にとっては煩わしくなってくる。私を表わすのに「わたし」だけしか使えないとしたらどうなるだろう。社会のあらゆる層、例えば、男も女も、子供も大人も、政治家からヤクザまで、自分を表わすのに「わたし」だけしか使えない。こんな社会を想像したことがあるだろうか。「わたし」だけの問題でなく、あらゆるのもが変わってしまうであろう。フランス語やイタリア語などには二人称に「テュトワイユ」という若者相手や仲間同士のくだけた語法があるが、日本語の用法とは異なる。また「汚い言葉」は世界中同じだ。これとは別問題だ。

  最初にチャオが学校で覚えて来たのは宣誓の言葉と歌である。胸に手をやって英語で宣誓する。そして、歌い出すのである。アメリカ国歌はオリンピックなどで聞くあの歌しかしらないが、チャオの歌っている歌は少し変だと思った。曲は英国国歌で、やはりオリンピックの時(といっても、めったにオリンピックでは聞かれないが)に聞くあれだ。しかし、歌詞が英国国歌のとは違う。どうも、ピルグリムの先祖達がアメリカに到着した頃からか、独立戦争の頃からか、いまの米国国歌が1931年に制定されるまで、この歌を歌って民族意識を高揚していたのではないかと思った。歌詞からして、そう理解するしかない。メロディーが英国国家と同じなのだから。
「学校で、時々、やるの?」
「毎日さ」
「へー、毎日、宣誓して、その歌を歌うの?」
「そうだよ」
  まあ、アメリカへ来たのだから、少々馬鹿げているかもしれないが、これもアメリカの文化で、それを経験するのもいいだろう。様々な宗教や国籍からなる国民の意識を統一するには星条旗と国歌という単純で象徴的なものしかないのだから。だが、日本のように、島国で外国と国境を接していない場合、そんなものを強制する事は全くナンセンスだ。それよりオリンピックなどで日本の選手が優勝できるように国がいろいろ対策を講じる方が効果は大きい。国際舞台での日章旗と国歌はナショナリズムをくすぐるからだ。
  それから、アメリカ(英国も同じだと思うのだが)での判断基準の一つとして、日本人にとって衝撃的ないい回しがある。『That's not fair』だ。チャオが幼稚園に通い始めて間もなく、近所の子供たちと遊んでいる時に、さかんに口にするようになった。この何気ない言葉を5歳児が何気なく使っているのだ。『それは公平でないよ』。対人関係で問題が起きたときに、同じルールで判断して公平さに欠けて、不利になっている時に使う。子供がこの言葉を使うということは、社会全般が『公平さ』を判断基準にしていることになる。『公平』という概念には年齢差がない。基本的に相手の気持ちを詮索する必要も無い、若い者も年寄りも無い。言葉だって年配者が若年者を「お前」、後輩が先輩を「貴方」と呼ぶ必要も無く、極端に言えば「ため口」など存在しない。アメリカが訴訟社会なのが判る。例えば仕事で競争する場合、日本のように年齢の高さが仕事に役立つことはない。高齢者に優しく尊敬する気持ちは持つが、仕事では常に対等なのである。『公平』という判断基準があるからだ。アメリカで外国人として生活していると気が楽だが、本当に住もうと考えたら、日本のように煩わしいが少々不平等さがあっても甘えが許される国と、剥き出しの傷を舐めあっているような国とどちらがいいか考えてしまう。


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”遠い夏に想いを”- Click here(ヴィオさんの旅行ブログ) も一読ください。
ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。