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旅立ち   

  仕事でミネソタへ行くフライトだった。照明が落ちた暗い機内には人の動く気配もなく、だだ、エンジンの音だけが単調に響いていた。NW007便は闇に包まれて、サンフランシスコへ向けて飛行を続けていた。眠れないまま、窓の外の闇の中で点滅する照明灯を眺めていた。
  その時、『こんにちは、暗闇よ、長い付き合いだね。また話に来たよ・・・』とサイモンとガーファンクルのなつかしい「サウンド・オブ・サイレンス」が心の中で響いてきた。
  そして、突然、闇の中から35年前の記憶が蘇ってきた。そうだ、あれは1970年9月21日の月曜日で、決して忘れられない長い一日だった。あの頃、私は人間関係に疲れ、心も病んでいた。
  そして、初めての海外体験と失敗の連続が始まるのである。東回りで米国から欧州を廻って日本に帰って来たが、これは結果としてカルチャーショックを和らげる効果があった。戦後、我々の生活は急激に欧米化したといわれているが、実際には、米化が遥かに強い。ヨーロッパは昔から精神面での影響力が強いが、日常の実生活面では我々が考えて来たほどの影響力はない。従って、アメリカでのカルチャショックは、ヨーロッパでのそれよりも遥かに小さい。そのカルチャーショック体験を楽しむことにしよう。

 さあ、東廻りの『オデッセイ』への旅立ちである。

  中華航空を利用した。それには理由があった。チャオの幼稚園の父兄にアメリカ系の出版社に勤務していたTさんがいて、この人のつてで切符を安く購入したのだが、当時、格安切符が手に入れられるのはIATA未加盟の中華航空くらいだった。しかも片道切符だ。
  最初の『体験』は飛行機の中で起きた。東洋の中でもこんなにさまざまな違いがある。中華航空のB707機に乗り込み、席につこうとしたら、既に、その場所に若い中国女性が座っている。座席番号を確認したら、彼女の席は確かにその席だった。月曜日とあって割と席はすいていたが、とりあえずスチュワーデスを呼んで再確認してもらった。我々が子供のいる3人連れであるのを見てとって、突然、彼女は座っている女性に席を移るように中国語で指示を出した。お願いしているのではない。当然、座っている女性は不満顔で動こうとしない。スチュワーデスは彼女の荷物をラックから引っ張り出し、後ろの席に移してしまった。仕方なしに女性は席を移って行ったが、35年経った今でも彼女には申し訳ない思いである。スチュワーデスはその間ニコリともしなかった。ただその場の問題を解決する事が急務で、「こんな事はしょっちゅう起こるのです」と言って、次の仕事に移って行った。
  翌年の夏休みに読んだスチュワーデスの経験談を面白おかしく書いた小説に『スチュワーデスの仕事はスマイルです』というのがあったが、この中華航空のスチュワーデス嬢はまさにその反対を行っていた。2年後の1972年に、この旅行最後の飛行機の中で経験した『日本を代表する航空会社』のスチュワーデス達が示した問題解決力の無さと外国人や有名人に媚びる態度、更に、無意味なスマイルに終始する不気味さに比べれば、どれだけ彼女が素晴らしいかが判るだろう。
  アメリカ国内便のスチュワーデス達はアッケラカンとして、スマイルを絶やさず機敏に動き回る。各社とも国際線におけるセカンドクラスは今のビジネスクラス以上のサービスだった。中華航空でも夜食に出た中華料理は素晴らしかったが、疲れ切っている私達は食欲がなく、一口か二口食べて残してしまった。私は結局一睡も出来なかったが、チャオはなんの不安もないような顔をして寝ていた。チャオは5才、まだ幼稚園児だった。アメリカに行って住むことが、どうゆうことかまだ理解できない年頃である。何がなんだか判らないままに、チャオには物凄い緊張が張り詰めていたのだと思う。
  私は眠れないので、機内で上映されされている映画を見ていた。廻りを見渡すと、殆どが中国人である。アメリカ人が数人おり、そのうちの女性が中国の箸で、さっと髪を留めてしまった。これには驚いた。何にでも固定観念はつきものだ。箸は食事に使うものと決めているとそれ以外に用途は捜せないが、女性の髪を留めるために使用されると、なるほど、アイデアが素晴らしいと考えてしまう。このように思いがけない使い方を考え出すことについては、アメリカ人の右に出る国民はいない。それは固定観念にとらわれないからだ。自分がいいと思ったら、他人がどう思おうと気にしない。ただ、余り過ぎると個人主義がひどくなり、社会がギクシャクする。


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”遠い夏に想いを”- Click here(ヴィオさんの旅行ブログ) も一読ください。
ミネソタ大学留学のあと、パリ大学の夏期講座に妻が受講するためパリへ飛び、3ヶ月滞在したときの思い出を探してのブログ手記です。