2006年12月16日に行った玉電散策オフ会のレポートです。(オフレポでなく砧線紹介になってますが…)
当日、参加者の方に配付した栞(過去数回の砧線歩きの沿線の様子)を基にしています。
何分、今回は私の不備で見落とし箇所や誤った点があったのでできればそれを補完するできれば幸いです。
当日さっしいさんが配付された昭和40年代の写真や参考文献にある文献も参考にされるとより理解できるかと思います。
また、各画像をクリックすると大きい画像が見れます。
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かつての玉電の乗り場は東急ストア経てプレッセになっています。 今回散策するのはこの裏側になるカーブ跡の散策です。残念ながらカーブ跡の道はなくなりましたが、何かが残っているかもしれません。 |
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写真は2005年のものです。今回の散策では右手の駐車場が工事現場になっていました。 奥に見える富士会館跡地に建ったマンションも完成しています。ほぼ同じ場所の昭和40年代の、駅を再現したCGはこちらです。 |
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今回の散策で皆さんをここに案内しました。「玉電が走った街今昔」にはまだカーブ状の道の写真が載ってましたが、今は駐車場と緑地になっています。 写真では右側の建物がカーブ状に並んでいることが確認できます。 今回は緑地になった経緯を示した看板を確認でませんでした。以前散策時の写真から、世田谷区と玉川高島屋SCの協定だそうです。 |
管理人コメント:このカーブ跡にある柵は以前、1人で散策したときに偶然見つけたものでした。 TADAさんが仰られたように柵が新しいのではないかという疑問はありますが、さっしいさんの写真や地図などからこのあたりが本線から分かられた砧線のカーブであることは間違いないようです。 ただ今回この場所の写真を撮りそこね、過去の写真を紹介する形になってしまいました。 |
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砧線跡から少々離れた、バイパス高架下にひっそりとあります。ちっぽけで見落としがちですが、これも立派な玉電の遺構の一つです。 現在の二子橋にも架線柱の跡を橋の下から見ることができます。 |
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この親柱、「大正十四年七月から昭和五十三年まで」使用されていたと書かれています。玉電が溝ノ口へ延伸したのは1927年(昭和2年)なので工事期間も含めているのですかね。 |
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今回は気がつかずに通り過ぎてしまいました。緑道の入り口にあるタイルです。場所は中耕地停留所跡の1ブロック手前、バイパスを越えたところにあります。 デハ60形のイラストが描かれています。 |
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中耕地停留所跡の記念碑です。ホームがあった分歩道が広くなっているため、便利な駐輪スペースと化しています。 2003年10月に訪れたときの様子はこちらです。早朝だったので人も自転車も無くすっきりしています。停留所跡ということでこの部分が広くなっていることがよく分かります。 |
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中耕地停留所の様子を再現したタイルです。描かれている車両は突っ込みどころ満載ですが、これもデハ60形です。 |
管理人コメント:駅跡の場所もうっかり通り過ぎてしまうところでした。慌てて皆さんに声をかけました。こういうものって意外と見落としがちなんですよね。 |
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こちらは中耕地停留所跡から少し吉沢方面に進んだところにあります。 左側には明治時代の玉川の写真と、玉電と砧線沿線の案内が書かれています。案内板の左側の拡大画像、右側はこの緑道と谷川緑道の地図です。右側の拡大画像。 |
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レールを利用した柵です。柵の柱にもタイルがはめ込まれています。 タイルの拡大画像はこちら。なんだかヨーロッパの路面電車みたいです。 |
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手の込んだ緑道が終わって、多摩堤通を渡れば吉沢停留所跡です。様々な文献で取り上げられている、昔の東急の社紋があります。
緑道と違って忘れ去られた存在です。 完全な単線だった砧線ですが、戦前はこの駅に交換設備がありました。 写真は東急の敷地だったことを示すコンクリートの杭です。今もマンションの敷地と道路の境界に2つ残っています。 |
野川橋梁は当初、橋脚のある鉄橋でしたが、東京オリンピックが行われた1964年(昭和39年)ごろにプレートガーダー橋に架け替えられました。 そのプレートガーダー矯は砧線廃止後も道路橋として転用されました。2006年3月に野川の河川工事のため、架け替えられその役目を終えました。 玉電の鉄橋としては小さなものはいくつかありますが、二子橋は併用軌道だったので、この野川橋梁は玉電で唯一本格的な鉄橋でした。 ここでは河川工事による変貌も紹介します。 |
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上流側からの対比 | |
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2003年7月の写真(吉澤橋から撮影) まだ河川工事が始まる前の様子です。 川はとても綺麗で鯉でしょうか?魚が泳いでいます。撮影時、隣には釣りを楽しむ人もいました。この撮影場所は歩行者用の橋でした。 この吉澤橋からデハ60形が野川橋梁通過する様子を撮影したと思われる写真をまれに見かけます。 バスが通過した後の写真はこちらです。吉澤橋の柵も写っています。 |
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2005年1月の写真(吉澤橋から撮影) 河川工事が始まり流域が変わりました。橋周辺の雑草などが無くなり橋梁の様子がよく分かります。しかし川の水は濁り、魚や水鳥たちの姿はありません。 河川工事が始まる前までは、橋梁より先の下流側が蛇行していましたが、それを橋梁から大きく曲げまっすぐになりました。廃線跡の新吉澤橋から撮影した写真はこちらです。左側が前の野川です。 野川の工事案内図はこちらです。 |
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2006年3月の写真 すでに新吉澤橋、吉澤橋共に撤去された後の写真です。右側に写っているのは、新吉澤橋の砧側の矯台部分です。なにやらこの部分の解体準備かなにかが始まっていました。 仮橋が下流側にカーブする形で設けられています。 |
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2006年5月の写真 砧本村側の橋梁の矯台部分が完全に撤去された後です。 吉沢側の矯台部分はまだ残っていました。写真はこちらです。 写真中央に薄っすらと聳えるマンションは、かつて富士会館のあった所です。 |
今回の散策で訪れたときは、仮橋が上流側になり対比写真を撮るのは難しい状態になりました。位置は旧吉澤矯(歩行者用の橋)のあたりになります。 |
砧本村側からの対比 | |||
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2003年7月 | 2005年1月 | 2006年5月 | 2006年12月 |
2006年12月(散策時) 仮橋は上流側に架け替えられ、5月に訪れたときの仮橋は撤去されていました。 |
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吉沢と大蔵の間に伊勢宮河原という停留所がありました。この公園のあたりにあったそうです。この停留所は古地図などでも記載されていないことが多い停留所でした。砂利積込みの施設のあった臨時乗降場だったそうです。停留所名は伊勢神宮から勧請された祠が近くにあったことが由来とされています。しかし台風による多摩川の洪水で流されてしまいました。「玉電が走った街今昔」より。 また、以前大勝庵のご主人から日に2、3人の利用客があった程度という話をお聞きしました。 |
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伊勢宮河原停留所跡の付近にある、多摩川方面に延びる細い道です。「ありしひの玉電」43頁に「大蔵ー吉沢に側線を持った伊勢宮河原という停留所も存在した」という記述があります。 もしかすると側線があったのかもしれません。ただしこの細道が側線跡なのかは分かりません。分岐点の写真はこちらです。左が怪しい細道、右が砧線跡です。 |
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かつての大蔵停留所跡です。この停留所では砂利の積み込みようの側線や施設がありました。残念ながら側線跡には住宅が建ってしまいたどることは難しくなりました。 この停留所は、1943年(昭和18年)7月1日に休止、同年11月11日に廃止されました。 |
管理人コメント:今回の散策では、伊勢宮河原を大蔵と紹介してしまいましたが、誤りです。 |
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さっしいさんの写真などから、左側の家やアパートは建て替えられましたがコンクリート壁はそのままのようです。 こうした数少ない古い壁や家などから位置を推測し、対比写真を撮ることができました。 2005年1月と比べ、この周辺ではマンションや新しい家が増えました。2005年の写真はこちらです。 |
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かつてのホームは公園の砂場辺りから、奥の建物の辺りです。昭和30年代の砧本村を再現したCGはこちらです。 大体同じようなアングルです。 |
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かつて駅の売店があった場所です。奥には鉄道用の柵も残っています。 |
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かつてのホームの屋根は90度向きを変え、長さも半分ほどになりましたが移築してバス停として再利用されています。 |
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玉川線、砧線廃止後、代替バスとして数多くの路線が新設されてました。ここ砧本村からも(玉06)二子玉川園駅、(渋13)渋谷駅、(黒03)目黒駅などの路線が設定されました。 しかし現在では玉06系統 砧本村ー二子玉川駅以外の路線は無くなりました。 写真は(玉06)系統の朝ラッシュ時におけるルート変更の看板です。吉沢から中耕地を通り二子玉川駅へ至るルートです。砧線のルートにより近いものになりました。 管理人コメント:実家にある1990年(平成2年)の世田谷区の地図には(渋13)砧本村ー渋谷が記載されていました。この路線は遅くまで残っていたようです。 |
大勝庵は、昔からカレーうどんの美味しいお店として地元では有名でした。最近では店内に展示されているデハ71の運転台や玉電の部品、貴重な写真や資料など玉電好きのご主人のいるお店で有名です。 今回はこちらで昼食取りつつ、ご主人を囲んで昔の玉電や都電の話などとてもとても楽しいひと時を過ごしました。 ご主人いわく、デハ70、80、そしてデハ200形も砧線に入線したとか、でもデハ200形は吉沢のカーブが曲がれず脱線しそうになたったため引き返したそうです。 この他に、佐藤文俊さんが持参した蓄音機の音色を楽しみました。 |
砧線跡を訪れた後は、立ち寄って蕎麦と玉電を楽しんでみるのもいいと思います。 追記:平成23年12月をもってお蕎麦屋は閉店し「大勝庵 玉電と郷土の歴史館」として再出発しました。 |
管理人コメント:参加された皆さん、ならびにご協力していただいた大勝庵の皆さん本日はありがとうございました。 |