教育の行方

 今年も、"教育論"は"経営論"に勝てませんでした。いつもこの時期は成績判定会議でおおもめにもめます。特に来週卒業式を控えた2年生の判定は、これで卒業できるかできないかが決まるので白熱(?)します。
 私は2年間彼らに"自分の行動に責任を持つ"ように言ってきました。でも、彼らが出した結果は、前代未聞の"欠席過多"続出でした。
 専門学校を卒業すると、"専門士"の称号が与えられます。授業にほとんど出席しなかった学生に、教務部として、"専門士"の称号を与えるわけにはいきません。でも、経営者の立場で、多数の留年者を出すことは、対外的に大きなリスクを負うことになります。私が出した結論を"正論"だと認めながらも、それを実行できないのが、経営者の唱える"教育"になってしまいます。
 この問題は、私が経営者でない限り、そして、経営者が教育者でない限り、消えることはないでしょう。でも、来年こそは、私の目指す"教育"を実現するために、経営者に教育者になってもらいたいと思っています。
 「自由・受難」これは、私が通った大学の校訓です。この校訓は、学校側が学生に押し付けたものではありません。学校の片隅に古い鐘があって、この鐘をささえている2本の古木にいつの頃か、学生のだれかが、「自由・受難」という文字を彫ったのです。それが学校の校訓となりました。
 この学校に漂っている「自由・受難」の空気が私は大好きでした。大学に入学してすぐのことです。必須科目の保健体育の講義がありました。大教室に集まった何百人の学生達は、講義を聞くでもなく、ざわざわとしていました。すると、講師が静かにこう言ったのです。「君達が私の講義を聞いていないのは、きっと他にやりたいことや、やるべきことがあるからです。そうであるなら、君達はそれをやるべきです。大学という所はそういう所だから。」
 就職活動をしていた時のことです。ある会社に内定をもらい、そこに就職するつもりで、礼状も出しました。すると、すぐにもう一つの会社からも内定をもらいました。考えた結果、最初の会社を辞退することにしました。就職課に行って事情を説明して、担当の人に、「こういうことをすると学校の印象が悪くなりますよね。」と言うとその人は、「学校のことは学校がなんとかします。あなたの人生なんだから、あなたが行きたいところに就職すればいいんですよ。」と言ってくれました。私はなんてステキな学校にいたんだろうって改めて思いました。
 この頃私が接した考えが、今の私の教育論に大きく影響を与えています。"自分で選んだ結果は、自分が責任を負う"これが基本です。ほかにもいろいろあるけど、それはまた次の機会に(笑)。

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