ストレス と スリキレ

 

「ストレス」は日常の会話でよく聞かれる言葉である。

「都会生活のストレスから逃げ出す人々」「受験勉強のストレス」「交通地獄のストレス」「美人たちに取り囲まれたストレス」など、ストレスとはいったいどういうことなのか、良く判らないままに日常会話に使われている。

 その意味するところは医学用語としての「ストレス」とは異なり、しかも医学関係者の中にもその用法上の過ちに気付かずに用いている人たちもいる。日常会話であればそれなりに意思が通じれば足りるが、医学上の用語として誤った用法は訂正するべきである。例えば、

 1 血管迷走神経反射による循環虚脱・心動停止をストレス反応であるといい

 2 ストレスを論ぜずに、歯科治療に対する不安・緊張感を単純にストレスとよび、

   或いはストレスをストレッサーと言い換えたり

 3 患者は歯科治療をストレスと感じているといい、痛み刺激を「痛みストレッサー」とよび

 4 患者は歯科的ストレッサーに対して痛みを感じるといい

 5 歯科治療中の偶発症をストレスとよぶ 

 6 術後痛はストレスによって引き起こされる

など医学でいうストレス、すなわち「全身適応症候群」とは全く異なる記述である。

 われわれが自覚できるものはdistress(デストレス、苦痛、悩み)であり、医学上ストレス学説でのストレスやストレッサーは感覚・感情として感じるものではない。ストレッサーによって引き起こされるものは「ストレス・全身適応症候群」であり、歯科治療中のいわゆる偶発症はストレス病ではない。偶発症はストレスによる合併疾患の増悪である。そしてすべての侵襲刺激をストレッサーとよぶのではなく、ストレスを論ずる時にのみ身体への侵襲刺激をストレッサーというのである。

 そこで日頃気になるこの問題についてこのコラムに掲載し参考に供するとともに、諸兄の意見を伺いたいものと期待している。

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 1 ストレスは有害か

 「電話は近代の殺人機械」と呼ぶ人がいる。電話は仕事をたえず邪魔して中絶させるから、精神を集中して仕事をしている人々はストレスとなり、そのため心臓病が起こったとすれば、殺人機械といっても不当ではないだろう。近代社会の中では、特に都会生活はストレスに晒される危険にみちている。その結果、神経性疲労から不眠になやまされ、気分が落ち着かず、さらに身体的障害にまで発展することも少なからずみられる。つまりストレスは身体の摩り切れ、スリキレを起こす。

 ところが、捕獲したばかりの野生のネズミと、数十年間代を重ねてほぼ25℃の環境で飼われていたネズミを比較した報告がある(BaltimoreUSA)。体重については両群に差はなかったが、臓器について比較すると、副腎、肝臓、脾臓、心臓などいずれも飼育ネズミのほうがはるかに小さく、胸腺は逆に大きい事がわかった。つまり野生のネズミは環境への適応あるいは自然選択の能力が高まっていたのである。

 ストレスは、我々の身体にとって害になることも多いが、逆に環境への抵抗力や身体の適応能力を高めることも多い。ストレス学説の創始者セリエによれば「ストレスには量的に過剰なストレス(over-stress, hyperstress)と過少なストレス(understress, hypostress)があり、質的にも有益なストレス(good stress, eustress)と有害なストレス(bad stress, distress)がある」4という。厳しい自然環境は野生のネズミには有益なストレス eustress をもたらし、飼育ネズミにとって快適な環境はhypostress になったといえる。

 

 2 セリエのストレス学説

 セリエ( Hans Selye 1907 1982、モントリオール大学の実験内科外科学研究所長兼教授)は雌のネズミに減食という処置を加え、卵巣がどう反応するかを研究し1935年論文を生物学の雑誌に発表した( Proceedings of Royal Society )。その中で彼は、外来の処置(主に減食)を総括して「ストレス」という言葉を用いたのである。

 「・・・もし卵巣の活動が、黄体相よりも卵胞相(発情期)でストレスに対して感受性が強ければ、ストレスを介入させることによって黄体相の発現期間を正常よりも長引かせることができそうである」と考え、飢餓から生ずる激しいストレスを用い実験を行った。

 12匹の雌のネズミの食物を毎日不足させると、減食開始の数日後に発情期が終わり、減食中は発情が現れなかった。

 この結果セリエはこれらの食餌処置で、激しいストレスが卵巣中の卵胞の成熟を抑制し、黄体相の存在が現れることを発見したのである。ヒトでも減食飢餓によって視床下部性無月経が起こることはよく知られている。誤ったダイエット中の女性にも見られる例である。

 その後の研究実験結果を基に「生体が非特異的な刺激( stressor )に当面すると、その刺激の種類に無関係な一連の個体防衛反応が現れることと、これには下垂体前葉ー副腎皮質系が主な役割を演ずることを提唱した(1936)。この反応、すなわち stress は局所的な場合(局所適応症候群  local adaptation syndrome  LAS )も全身的な場合(全身適応症候群 general adaptation syndrome  GAS )もある。」というセリエのストレス学説が誕生した。

 

 3 全身適応症候群(GAS)

 GASの初めに見られる反応を警告反応とよぶ。この警告反応期( stage of alarm reaction )をさらに2つの相、ショック相と反ショック相に分ける。最初は個体が刺激に直面した直後で、個体側には未だそれに対するなんらの準備もできていない時期である。個体の抵抗性は正常状態よりも低下し、外科的ショック時に見られる症状を呈する(ショック相)。Reilly 現象が見られるのはこの時期である。続いて刺激によって下垂体前葉ー副腎皮質系が興奮すると、個体は刺激に対して積極的な防衛反応を呈してくる。これが反ショック相である。

 さらに抵抗性の増加した抵抗期(stage of growing resistance or adaptation)を経て、ついには疲弊、疲はい期(stage of healing or of becoming exhausted )に至る。その終末は云うまでもなく動物、人間の死である。

 セリエは「ストレッサーの種類に無関係な一連の個体防衛反応が現れる」と考えたが、現在ではストレスの基本的反応はそのとうりであるが、ストレッサーの種類によってそれぞれ固有の反応を、基本的反応の上に伴うことが判ってきた。

 ストレスは、体外から加えられた各種の有害作因に応じて体内に生じた障害と防衛の反応の総和である、と定義されているようにストレスは症候群なのである。

 「都会生活のストレスから逃げ出す人々」「受験勉強のストレス」「交通地獄のストレス」「美人たちに取り囲まれたストレス」などというストレスとはいったいどういうことなのか。その意味はセリエのストレス学説からはほど遠い。ストレスを「全身適応症候群」として考えてみれば、その不合理を理解できるであろう。

 

 4 ストレスという用語

 古くから stress・ストレスという語を常用しているグループはエンジニアである。機械工学ではストレスを「隣り合った物体、あるいは一つの物体の部分の間にある力である」と定義している。つまり「応力」である。歯科領域では咬合力を意味する。

 ところがセリエ教授が stressストレスを医学の用語に導入したために新たな混乱が起こった。

1935年、セリエ教授は論文を発表、減食によって雌のネズミの卵巣がどう反応するかを研究、その中で外来の処置(主に減食)を総括して「ストレス」という言葉を用いたのである。「ストレス」を考えるとき注意するべきことは、「ストレス状態を生ずる作用因子と、それらの作用因子によって生じたストレス状態とを、はっきり区別して考えたり話したりすることである。しかしセリエのストレスの定義が曖昧なために多くの人の間で混乱が起こった。

 そこで、セリエはストレスをさらに明確に定義して区別し、ストレッサーという言葉を作った。単にストレスと呼べば、このストレッサーによって起こされたストレス状態を指す。日本語ではストレッサーをストレス作因(作用因子)ともいう。現在「ストレスは生物の体内に生じた歪みの状態を表現する抽象的な言葉である」と定義されている。すなわち、体外から加えられた各種の有害作因に応じて体内に生じた傷害と防衛の反応の総和である、と定義される。ストレスとは身体全体に起こってくる反応 = 全身適応症候群である。つまり生理的生化学的症候群として理解されている。

 しかし現在なお日本では、多くの人たちがストレスを「生体内のひずみ」ではなく、むしろ「ひずみを起こさせる有害刺激」あるいはストレスとは無関係に「デストレス」の意味で使うためストレスという用語の意味が混乱している。 日常一般に使われているストレスという言葉は、天候のストレス、育児のストレス、社会的ストレス、歯科治療のストレスなど身体的精神的 distress の意味で使われているが、この点をよく理解したうえで議論するべきである。

 英語の stress そのままの呼び名であるストレスとは、どう定義されているかWebsters Third New International Dictionaryを開くと stress 次のように説明している。

 stress [ ME stresse, short for distresse distress-- more at DISTRESS ]  1  obs DISTRESS 3b  2 chiefly dialDISTRESS  3a a condition existing within an elastic material because of strain or deformation by external forces or by non uniform thermal expansion and being expressed quantitatively always in units of force per units of force per unit area.  b a physical, chemical, or emotional  factoras trauma, histamine, or fear to which an individual fails to make a satisfactory adaptation, and which causes physiologic tensions that may be a contributory cause of disease  <  continuedmay result in gastric ulcer>   <  cramps before a school examination may be a response to the of worry >  < diseases are hazards of modern life >  see  ADAPTATION  SYNDROME .

 stress distress と同義語、略記として説明している。そしてstressor については記載がない。

 Dorlands Illustrated Medical Dictionary Ed. 28では、

  stress .  1 Forcibly exerted influence; pressure.  2. force per unit area, which may cause strain(q.v.) on an object.  3. In dentistry, the pressure of the upper teeth against the lower in mastication.  4. The sum of the  biological reactions to any adverse stimulus, physical, mental, or emotional, internal or external, that tends to disturb the organisms homeostasisshould these compensating reactions be inadequate or inappropriate, they may lead to disorders. See stress reaction, under reaction, and see general adaptation syndrome, under syndrome.  5. the stimuli that elicit stress reactions.

とあり、歯科領域で用いるストレスは咬合力を意味している。さらにstressor については同様に記載がない。

 ストレスとストレッサーとの用法上の混乱はわが国だけのことではない。ストレスの語源はdistress の略記としていることからみても、原語自体の起源も不明である。そこで、米国精神医学会ではDSMーIII Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders III  1980)で「stress」と「stressor」を明確に区別した4。そしてその内容も大胆に変更したため日本の精神心理学の分野にセンセイショナルな影響を与えストレスについて混乱を生じた。しかし未だにpsychosocial  stressorsの日本語訳を「心理社会的ストレス」としているように、ストレス学の専門家以外の人たちの間ではストレスとストレス作因、さらにデストレスとが混乱している。ストレス学の専門家は、生理学生化学免疫学の立場でこれらを混用誤用することはない。

 例えば日常会話で、ストレスがたまる、ストレスを発散させる、ストレスに押しつぶされる、などというが、この場合のストレスとはどういう意味で用いられているのであろうか。「有害刺激がたまる」「有害刺激を発散させる」では意味が通じないばかりでなく、主張している本人も正しく理解できないであろう。混乱が増すばかりである。

 

 5 手術侵襲・麻酔とストレス

 われわれが日常的に行っている麻酔では、安定した麻酔状態を作ることで手術侵襲から生体を保護しようとしている。つまり手術・麻酔侵襲によって生ずるストレスを軽減し、生体の正常な代謝や免疫反応を維持し速やかな術後の回復を図ることを目的としているはずである。

 手術に伴う侵害刺激には不安恐怖などの精神的なものをはじめ、手術野での外科的組織損傷、循環動態の変動、出血、輸液、輸血などの身体的な、さまざまのものが含まれる。しかし手術損傷に伴う手術野から中枢へ伝えられる神経衝撃(impulse)は侵害刺激そのものではない。ところがこれらの侵害刺激と明確に区別できず、しかもストレスとを混同して「・・末梢神経から発生する侵害刺激が大脳皮質に到達する・・」などと議論を展開している人がいる。

 また「術後痛が手術ストレスによって引き起こされる」と論じている人がいるが、これは術創から中枢への神経入力によって痛み感覚が生じ、その結果ストレスが引き起こされるものであろう。ストレスとは医学上どのように定義されているか理解しないままに「侵害刺激による手術ストレスが加わらない場合・・・」、「局所麻酔薬の効果時間も十分であることから、術野よりの侵害刺激が発生したとは考えられない」、「・・大脳レベルで侵害刺激を軽減する・・」と論じている者もいる。侵害刺激は大脳レベルに加えられるものではなく術野に加えられるものであり、ましてや術野から侵害刺激が発生することもない。ストレスでは大脳あるいは中枢神経系への神経衝撃の入力を抑えることが重要なのである。また、歯科治療の侵襲の大きさ、つまり侵襲度とストレス、そしてデストレスとを混同して「従来、麻酔注射を使用せず処置時間も短い処置は侵襲が小さい処置と考える事が多かった。しかしこれらの処置に対しても患者がストレスを感じていることに我々は注意を払う必要がある」あるいは「侵襲度とは精神的なストレスおよび肉体的ストレスを併せた概念」3と論じている論文に至っては、もはやセリエのストレス学・全身適応症候群とは全く異なる概念と云わざるを得ない。論点の「処置」を小さい侵襲と考えるのは当然のことであるが、ストレスと侵襲との相違にも気付いていない。もちろんストレスの大きさは侵襲の大きさと必ずしも比例しない。また、「ストレスに関するスコアをVAS法で比較した」5などと論じている者もいるが、ストレスは感じたり認識できるものではない。神経・内分泌系そして免疫系の反応を生理学生化学的に各種ホルモンやサイトカインについて調べなければ、歯科治療に伴うストレスを評価することはできない。これでは論点が不明であり社会心理学の論文ならまだしも、とても医学論文とはいえない。

 実際の症例をみても侵害刺激に対する反応としてのストレスは、侵襲が小さくても大きなストレスを生ずることもあるし、逆に大きな侵襲であっても小さなストレスで終わることもある。つまり、手術侵襲という侵害刺激そのものは軽減することができないが、それによるストレスすなわち生体が受ける障害と防衛反応の総和を抑制することは可能である。それは生体内の自律神経系、内分泌系そして免疫系の過剰反応を抑えることで可能になる。

 さらに「術後痛がストレスによって引き起こされる」と論じている人がいるが、これは術創から中枢への神経入力によって痛み感覚が生じ、その結果ストレスが引き起こされるものであろう。また、歯科治療時の患者が自覚するdistress をストレスとし、患者が抱く不安恐怖心の強さで手術侵襲度が異なると主張するなど、「ストレス」と「デストレス」そして「ストレッサー」との区別なく議論を展開している者もいるが、不安恐怖心と手術侵襲度は全く別の問題である。ストレッサーを論ずる時は「ストレス・全身適応症候群」との関連において論ずるものである。論点がまるで支離滅裂であり、とても医学論文として考えられない理論である。

 手術侵襲あるいは侵害刺激を単独に、即「ストレッサー」とは云わないが勿論ストレス理論上ではストレスを引き起こす作因すなわちストレッサーとして扱われる。ストレッサーである侵害刺激によって発生した神経インパルスが中枢へ伝えられ、その結果生体内に発生する適応症候群としての反応がストレスである。ストレスとは心理的反応ではなく、生理的生化学的免疫学的反応を意味している。

 

 6 全身麻酔と局所麻酔の併用

 全身麻酔に硬膜外麻酔などの伝達麻酔を併用することで安定した術中患者管理と、術後疼痛の管理も容易になる。口腔領域でも同様である。これは術野に加えられる侵害刺激の大きさや強さを変えることはできないが、局所麻酔薬によって中枢神経系に入力される神経衝撃を遮断し発生するストレスを抑制できた結果というべきである。この神経衝撃を侵害刺激そのものと考え、誤って議論している人もいる。

 Webstersanesthesiaの項を引くと、「 anesthesia;  loss of sensation and usually of consciousness  without loss of vital functions artificially produced by the administration of one or more agents that block the passage of pain impulses along nerve pathways to the brain. という説明がある。 さらにvital function をみると「a function of the bodyas the circulation of the blood, respiration or digestionon which life is directly dependent. 」とある。

 麻酔は手術による痛みや意識をなくするといっても、重篤な呼吸や循環の抑制を起こしてはならない。また、患者の全身状態が悪くなりやっと血圧が保たれているとき、麻酔によってその代償機能を奪い取ってしまうことがあってはならない。すなわち anesthesia without loss of vital functions である。

 いわゆるstress free 麻酔は、未だに満足できる域に達していない。 現在われわれが行っているバランス麻酔法では意識や痛みをなくすることはできるが手術によって引き起こされるストレス、つまり異常な代謝反応や自律神経系、内分泌系・ストレスホルモンの反応は全く抑えられない。術中患者は苦痛を意識しないが、体中にストレス反応が盛り狂っているであろう。しかもstress free 麻酔6を目指しても麻酔薬そのものがphagocyte の機能や免疫反応を抑制する事も判ってきた。

 局所麻酔と全身麻酔を考えてみよう。前者は末梢神経麻酔であり後者は中枢神経麻酔、つまり脳麻酔である。局所麻酔では、手術野に加えられた侵害刺激によって生じたインパルスは中枢へほとんど伝えられないため痛みを感じない。しかし、意識があるから精神的不安恐怖によって自律神経系、内分泌系が反応しストレスが発生する。

 全身麻酔では意識を喪失しているが、末梢神経系はほとんど麻痺していないからインパルスの大部分が中枢へ伝えられる。大脳皮質は麻痺しているために痛みを認知できない。しかし、中枢神経系のうち発生学的に古い部位ほど麻酔薬に対して抵抗性が大きいから、脳幹部自律神経系はインパルスに反応して循環や呼吸動態を変動させ、内分泌系、免疫系など全身の生理機能に影響を与える。かつて、全身麻酔下ではストレッサーによって生じた神経インパルスの伝導が遮断されるのでストレス反応は抑制されると考えられてきたが、ヂエチルエーテルは全身麻酔薬として好ましいものではないことが明らかになった。それは、エーテルがエピネフリンの分泌を強くうながす作用をもち、強力なストレス作因の一つになるからである1。このような事実は麻酔薬のみでなく他の薬剤についてもいえるが、今まで無視されてきたのである。

 そこで全身麻酔に伝達麻酔を併用すれば手術野からの神経入力を遮断し、自律神経系内分泌系の反応つまりストレスを抑制できるという考えから、両者の併用麻酔が行われるようになった。

 しかし全身麻酔に硬膜外麻酔を併用した研究報告7によると、上腹部の手術に硬膜外麻酔を併用しても広範囲に脊髄神経をブロックしなければ(C34からL24)、横隔神経(C 35)を介する脊髄への神経入力を阻止して内分泌系の反応(ACTH)を抑えることはできないという。これは迷走神経や液性因子は関与せず、脊髄を介して伝えられる術野からの神経性入力のみがその原因であると考えられる。もちろん精神心理的要素は全く関与していない。

 脳神経支配領域の口腔外科手術についてみても半月神経節の麻酔を併用しただけで効果が充分なのか、あるいはどれだけの範囲の脳神経伝達麻酔を併用すれば中枢神経系への神経入力を阻止できるのか、頚部交感神経系の関与を無視してもよいのか、そしてストレスを抑えることができるのか。しかも長時間手術の全経過を通して神経節ブロックの効果が持続する麻酔法についても、未だ確かな研究報告はみられない。

 完全なstress free 麻酔を実現するにはさらに探求するべき問題が山積している。

 

 7 ストレスは症候群である                    

   1) ストレスと適応ホルモン 

 ストレッサーによって生じた一連の反応は、いわば適応のための動的な症候群である。そのメカニズムには主として内分泌系、とくに脳下垂体前葉ー副腎皮質が関与している。そして生体のストレス反応として適応ホルモン、すなわちストレスホルモンの分泌が盛んになる。カテコルアミン、グルカゴン、ACTH、ADH、コルチコステロンなどがそれである。

 これらの中で重視されるのは、副腎皮質ホルモンであり、髄質ホルモンのエピネフリンである。皮質ホルモンは証明されただけでも30種以上にのぼり、コーチゾン、アルドステロンなどがある。さらにこのほか、ストレス下で分泌が増大するホルモンには脳下垂体前葉のACTH、成長ホルモン、後葉のADH、膵臓のグルカゴンなどがある。ストレス下におかれた生体は内分泌系の興奮とともに交感神経系の興奮を引き起こし、これらは協調して侵襲に適応しようと作用する。しかし、ストレス反応が強すぎると生体を傷つけることになる。

   2) 適応中枢 

 間脳とくに視床下部下垂体系の自律神経中枢が重要な役割を果たしている

   3) 免疫系

 さらに最近では、ストレスには免疫系も関与することが指摘されている。

 現代の社会病といわれている慢性疲労症候群(CFS)は、その病態病因がはっきりしないが、最近CFS患者のNK, natural killer 細胞活性が著しく低下していることがわかり、ストレスや疲労とNK 活性との関連が注目されるようになった。

 NK 細胞は自然免疫で中心的役割を演じ、その活性は免疫能を示す指標の一つとなりうると考えられている8。また、リンパ球などの免疫細胞の中で神経系および内分泌系にもその作用を及ぼすといわれている細胞群である。ストレスは生体に幅広く影響を及ぼすが、ストレスが免疫系に及ぼす影響はNK活性との関連において興味深い。  

 

 8 ストレスとスリキレ

  ストレスとは、体の外から加えられた侵襲によって引き起こされた心や体の緊張状態である。適度な緊張感は、仕事や競技・勉強のうえで充分に力を発揮したり、成功したりするために必要である。そしてこのストレスによって生体は抵抗力を増やし、その後のストレッサーによるストレス反応からの障害から身を守る事ができる。しかし緊張が大きすぎたり、続きすぎたり、重なりすぎたりすると内臓器官を傷つけ、体と心を消耗させる。ストレスを発散させ心身をリフレッシュさせることは、ストレスによる病気を防ぐために重要である。

 過剰で有害なストレス(over-stressbad stress)は体のスリキレになる。つまり、使い古しによって人の寿命がきまる。人の寿命は生まれてからの年齢ではなくて、からだの使い方でスリキレの程度が違ってくる。しかしストレスはいつでも有害ではなく治療にも使えるし、軽いストレスによって活動を高めることもできる。

 ストレスの多い現代に生きるわれわれは、精神的肉体的転向によって無用なストレスを最少限度にくい止める術を身につける必要がある。

 *代表的ストレス病

  a  心因性胃腸障害    :慢性の情緒的身体的ストレス状態が原因となって発症する。潰瘍を生じやすい人をさまざまのストレス作因にさらすと、他の反応に加えて、かならず胃の酸性度上昇をしめす。

  b マネージャー病     :社会の指導的地位にある人々にみられる50歳から60歳台におこる死亡、冠状動脈閉塞、狭心症、不整脈の現れる割合が、平均人口比よりも7から9倍も多いという。

  c 夜勤病             :日常の生理的リズムを乱すストレスが原因となり、適応エネルギーが減って生ずる疾病である。食思不振、不眠、頭痛および精神の集中力減退を主訴とする。さらに、夜勤は循環器系に対しても害があることが知られている。鉄道機関手の典型的疾患は心筋梗塞である。

  d 気候病             :リウマチがもっとも気象条件の変化と関係深い。

  e ストレス偏移による疾病    :栄養不足、低栄養の状況の中で、男性の女性化がみられる。特に極端な報告は捕虜収容所の軍人にみられた。(ストレス偏移:下垂体前葉ホルモンの活動の重点が適応ホルモンの分泌に移り、他のホルモンの分泌が低下すること)

  f 奇形  妊娠の1ないし2カ月の間に大量のコーチゾンが投与された女性に口蓋裂の胎児が発生した(ロンドン病院の報告)。

 

 9 東洋医学とストレス

   漢方薬

 甘草の根は昔から、鎮痛とか解毒のために用いられるばかりでなく、包摂あるいは緩和といったヤワラゲ補う意味で、広く愛用されている基本薬の一つである。この甘草の主成分にコルチコステロイドに似た作用のあることが確認されている。その主成分は、一種の配糖体であるグリチルリチンで、コルチコステロイドの体内での破壊を保護するにあることが示された。

   灸の実験

「マウスの副腎皮質にたいする灸効果の実験的観察」の報告がある。灸によって副腎皮質の活動が増強していることがわかった。 

      針(鍼)の実験

 健康な男子に刺針し、尿中のコルチコステロイドとウロペプシンの排泄量を調べた。その結果両者ともに減少し、副腎皮質の活動を抑制する方向に作用することがわかった。

      灸と針の組み合わせ

 灸は「瀉」の術で実の疾病に、針は虚の疾病に対して「補」の術として働く。針と灸は漠然と用いるのではなく厳密に適応と禁忌があり、適応を誤れば疾病は悪化する。   

 

 10 笑いとストレス  (笑う門には 憂いなし)9

 ストレスの研究が進むにつれ、ストレスでは免疫系にも影響を与える事がわかってきた。特にNK細胞活性への影響が報告されている。

 運動とNK活性との関連についてみると、激しい運動の後ではNK活性は減少、中等度の運動では変化なし、軽い運動では増加するという。

 精神的緊張によるストレスとの関連の一つとして考えられるパラシュート降下での調査では、降下の後のNK活性を調べると急激な増加の後低下し、アルツハイマー患者の介護者ではNK活性は減少するという。また、長距離のトラック運転手のNK活性は減少していたという。

 ストレスによって免疫力が低下しても「こころ」精神活動の条件、笑いによって免疫活性が増強されるという。つまり笑う門には憂いがないという。清水明氏(関西福祉大学精神科教授)7は笑うことによってストレスの影響に違いが生ずると主張されている。 

 ストレスでは免疫力が低下し、NK活性の低下が起こる。しかし笑いによってNK 活性が回復維持されるというのだ。

 楽しいはずのクリスマスもカラオケも、受けとる人によっては苦痛に感ずる。つまり悪いストレス(distress)になる。しかし、それを楽しいと思う人には良いストレス(eustress)となる。

 毎日嫌な上司の苛めにあうと、小さいストレスであってもそれが長く続くと大きな障害になる(hyperstress)。この一時のストレスを良い方へ解釈し笑いとばすことができればストレスが減少する。 ストレスでは各種のストレスホルモンが分泌される。脳下垂体、副腎皮質髄質、その他内分泌系は総動員される。エンドルフィンもその一つで、ストレスに対する生体の適応の仕方によって生体内に生ずる障害が異なってくる。

 また嫌なこと、不快なことを想像するだけで血圧が上昇するという調査報告もある。

 医学部学生についての調査によると、卒業試験の時期にはNK活性が減弱するが、試験が終わってからはそれが回復する。

 癌とストレス:

 毎日数千個のガン細胞が発生しているが、修復ホルモンによってそれらは除去され、さらに残ったガン細胞は免疫細胞が攻撃し消滅するので癌は発症しない。ストレスでこの免疫細胞が減少すると癌が発症する。

 スタンフォード大学の報告

 * 初期乳ガン患者がガンを告知された時、告知の受け取り方に二様がある。

1 ショックを受け絶望する患者

2 ガンと闘う決意を持って、仕事も休まず積極的に療養に努力する患者

 15年間の追跡調査によると、生存率に2.5倍の差が認められた。

 * 進行乳ガン患者にガンを告知し、その後の生存率を調査。

 1群:その後週一回90分の心理療法を実施、その中には必ず笑いを入れる。

 2群:心理療法を全く行わない。

 二群の生存期間に二倍の差がみられた。

 * 面白いビデオテープを見せて、1群には面白いときには思う存分笑うこと、2群にはどんなに面白くても絶対笑ってはならないと指示した実験。

 NK活性を測定すると明らかな相違が生じた。

 * 癌罹患率に影響する人の性格

1 内気な性格で、いつも他人のことを気にする。

2 遠慮がちで、積極的に行動出来ない

3 自己を主張出来ない

4 悩みを心の中に押し込み、表に出せない

こんな人は癌にかかりやすい。

 それに反して

1 他人には厳しく、自分には甘い

2 他人の失敗厳しく追及、自分の失敗は笑ってごまかす

3 人の事は気にしない

4 自分勝手な性格

   こんな人は癌に罹りにくい。 (憎まれっ子 世に憚る)

 * 嫁と姑との関係

 姑にどんなに意地悪されても、逆に反論して笑い飛ばしてしまう。心の中に押し込んで堪え忍ぶと病気が始まる。

 

 11 医学の概念は統一される

 ストレス学説のもっとも重要な点は、医学の統一的概念に役立つことである。疾病の部分をみることではなくて、疾病によってからだ全体に起こってくる反応を公平に眺めることに、セリエの適応症候群は大きな貢献をなしつつあるといえよう。

 医学は病気を予防し治療することにあるという旧い思想をぬぐいさって、健康を作り出そうとする新しい考え方に向かっている。もはや医学は、衛生学、臨床医学、基礎医学を区別する根拠を失いつつあると言ってよい、と田多井吉之介氏(元公衆衛生院生理衛生部勤務)は指摘されている。

 参考文献:

1) 田多井吉之介著 ストレス 、 創元社、大阪、1960

2 Webster’s Third New International Dictionary

3) 間宮秀樹ほか 歯科治療のストレス評価   日歯麻誌 242482541996

4) DSM-3 Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders-3 1980) 

                          米国精神医学会                新版精神医学事典 1992、弘文堂

5) 青野一哉  手術におけるストレス反応: 日歯麻誌、1998639

6) 山岡久泰  麻酔とは、臨床麻酔、131114681989.

7) 瀬川一ほか 手術侵襲と生体反応、          日臨麻誌、199414275279

8) 長尾夫美子、奥村康: ストレスとNK活性、臨床麻酔、215715791997

9) 清水明、   NHKラジオ、 カルチャー教室、 平成12115

 

 

 フグ中毒       181) 1994

 生体管理学      195) 1985

 最も高いハードル   198) 1995

 星状神経節ブロック  171) 1993