歯科治療のための吹送法吸入麻酔

 

 

 長い間欧米では笑気が歯科治療に盛んに応用されてきた。

 この目的に合わせ考案開発された代表的歯科用吸入麻酔器の1つが、BOC社製 Walton gas oxygen apparatus Model 1,2,3,4 & 5 である。 最新のWalton 5 のガスコントローラの目盛りは、酸素 0%15% までは 1 % 刻み、あとは 20% 50% が刻まれているだけである。

 この笑気麻酔法は歯科治療、おもに抜歯のために行われていたが、実際にこの麻酔を行ってみると難しいものであった。十分な知識と経験がなければ実際の役には立たない。この方法では、必ずチアノーゼが現れるが、短時間で軽度の酸素欠乏は害がないと考えて行われていた。

 しかし英国での歯科麻酔に関連した死亡事故の報告によると、1952年〜1956年の間に87症例が死亡したが、これらの死亡の原因は主に酸素欠乏である。V. Goldman は英国で行われている歯科の麻酔法をanoxic anaesthesia とよび、どんな短時間の酸素欠乏でも避けることが事故を防ぐために重要であり、吸入麻酔では常に20%以上の酸素を併用するべきであると主張している( Br J Anaesth 40 )。

 ハロタンは1951 Suckling によって合成され、それまでのエーテルに代わって1960年代に急速に普及した優れた特徴をもつ揮発性麻酔薬である。

 歯科領域でも笑気麻酔の危険性が指摘されていたことから、早速このハロタンを導入した。歯科用麻酔器 Walton 5にハロタン気化器(Goldman)を組み込み、笑気濃度を下げ酸素濃度を上げることで酸素欠乏の危険を避けることができるようになった。

 昭和40年代に至って我が国においても成人ばかりでなく幼小児や障害者の歯科治療の必要性が認識されるようになった。ハロタンの臨床における普及によって歯科治療に対して恐怖心をもつ患者のためにも、このハロタンを用いた吸入全身麻酔の活用が考えられた。

 欧米での歯科治療のための吸入麻酔は、従来から鼻マスクを用いる非再呼吸法が普通である。しかも比較的短時間で終わる12歯の抜歯が対象となる。

 東洋人では成人でも鼻マスクの適合の悪い顔面形態の人がいる。小児では鼻閉などがあり、なおさらである。しかも上顎前歯唇面の治療では鼻マスクがじゃまになり治療がしにくいことから鼻マスクに代えて鼻チューブを咽頭腔まで挿入する非再呼吸法、あるいは非再呼吸弁を取り外した吹送法麻酔が行われるようになった。

 吹送法麻酔とは患者の呼吸に関係なく、連続的に気道に酸素ー麻酔ガスを吹き込み患者の自発呼吸によって空気とともに吸入させる方法である。昔から扁桃摘出や喉頭の手術に応用されることが多く、咽頭あるいは気管の中へ細いチューブを挿入しガスを送り込む方法である。

 この吹送法の長所は1気管に太いチューブを挿入しないので喉頭鏡を操作せず、そのため咽喉頭を傷つけることがない 2鼻マスクの合わない患者にも応用できる。

 短所として1吹送法では補助呼吸ができない。そのため麻酔薬による呼吸抑制と気道狭窄のためにCO2の蓄積が進む。 2麻酔ガスは水分の全く含まれていない乾燥ガスである。歯科治療ではチューブの先端は咽頭腔まで挿入するので、咽頭粘膜が乾燥する。3口腔内の治療のため呼気の出口が狭められ、換気障害を起こすこともある。4口腔内で水を使用できない。

 吹送法麻酔では常に50%酸素を併用するので、呼吸がある程度抑制されても酸素欠乏になることはない。しかし、炭酸ガスの排泄は換気量に左右されるので、次第に体内に蓄積されてしまう。現在ではハロタンのほかにも優れた麻酔薬が登場しているが、いずれも呼吸を抑制しCO2の蓄積を起こす。これらの欠点を考慮すると、吹送法は30分程度の比較的短時間麻酔の症例への適応が考えられる。

 実際にこの麻酔を行ってみると麻酔深度が動揺し、安定した麻酔維持が難しい。それは鼻と口から空気を混合吸入するので吸入麻酔薬濃度を一定に保てないためである。できるだけ麻酔を一定に維持するには、とくに口呼吸による空気の混入量を変動させないことである。

 チューブを挿入した鼻腔からは呼気の排出はないが、他方の鼻腔からは吸気も呼気も出入りする。この鼻腔を閉鎖して空気の出入りを遮断すれば麻酔ガスへの空気の混入が減り麻酔が安定すると考える人がいるが、理論的にこの様なことはあり得ない。空気の混入が減ると、吹き込むガス量を増加させなければ窒息してしまう。こうなればもはや吹送法ではなく、非再呼吸法といったほうがよい。つまり空気の混入量を減らす必要はなく、空気の混入量を一定に保つことが安定した麻酔を維持するためのコツなのである。また咽頭粘膜の乾燥を減らすには、送入ガス量を少なくし、その代わりに麻酔薬濃度を高くし、さらに吹き込むガスに加湿すればよい。しかし口呼吸は避けられず、そのため口腔も咽頭の粘膜も乾燥する。

 我が国における歯科領域では、現在この吹送法麻酔はごく一部の臨床家が実施しているにすぎない。麻酔の維持と呼吸の管理が難しい、切削用タービンの水が使えない、時間の経過とともにCO2の蓄積がすすむことがその主な理由である。時間的制限があるうえ麻酔医に高度の熟練が要求されるなど、この麻酔法の長所を考えてもごく限られた症例にしか適応がないためである。

 かつて吹送法麻酔の症例を多数経験した結果、現状に適した歯科治療のための麻酔法として、我々は気管内麻酔法を汎用している。 Oct. 8th 1998