宗教と信仰

 

 毎年夏や秋になると、全国各地で神社のお祭りが繰り広げられる。「宗教と信仰とは同じものなのか、あるいはどう違うのか」。祭りが巡ってくるたびに、私にはこのことが漠然と心のどこかに疑問として気になっていた。その疑問に答えるような記事があった。その一部を紹介しよう。

 

 「村の神社も宗教法人、地元集落の代表者は神社の氏子集団。氏子は特定宗教の信者であると、裁判官は解釈しているらしい点に大きな疑問が残る。

 村の神社はしばしば氏神と呼ばれ、その氏神の社殿や祭礼の維持に協力している人々を、氏子などと呼ぶのであるが、それはまさに地域の生活集団そのものであって、宗教団体とか宗教法人とみるべきものではない。・・・・・

 十五世紀のころから、江戸時代を通じ昭和のはじめごろまでの日本の大部分の地域では、村や町にある神社はその地域に住む人々のいわば結合の中心をなすものとして、日常生活に密着していた。その生活上の実感はいまでも大多数の日本人の心の中に生き続けている。

 日本人は自己を無宗教と考える者が多い。実際には神社に参詣したり、死者の葬儀を仏式で行ったりしているのであるが、神信仰(神道)についても、また仏教についてもほとんど知識はない。したがって神道の信者とも仏教徒とも公言する自身はないところから、キリスト教徒などと比べて、自己は無宗教だと考えてしまうのである。・・・・・

 ところで一般の日本人は本当に無宗教なのであろうか。例えば食事の前に「頂きます」と唱える習慣ひとつとってみても、どの神か仏か、あるいは「お天道様」か、明確ではないけれども、自己の生活を成り立たせてくれているある超越的な存在に対する、畏敬と感謝の念の表現であることに、間違いはあるまい。

そのようにみれば、私たちの生活はむしろ宗教性に充ちているのである。家ごとに神棚と仏壇があり、村や町には「お宮」と「お寺」があるということは、少し前までの日本では普通のことであった。

 それなのに、どうして日本人は自己を無宗教と考えてしまうのか。その点を問題としたある研究者は、宗教には創唱宗教と自然宗教とがあり、日本人の宗教は後者であるため、無宗教とみえるのである、と説明している(阿満利麿著・日本人はなぜ無宗教なのか)。しかし、自然宗教というと、どの民族にもある原始的な宗教と混同される恐れがあるので、適切な表現ではないように思う。日本人の宗教を歴史的に考察しようとする私自身の立場からすると、共同体の宗教、あるいは共同体的な性格をもつ社会を基盤とした宗教、と表現した方が妥当であるかのように思われる。ここでいう共同体とは、近代日本の地域の集落につながる村や町を指している(川村学園女子大学教授・尾藤正英、サンケイ新聞 8211998)。」

 大漢和辞典によると、宗教の「宗」は祖先の廟屋、まつりの主体、まつり、先祖・本家・本源などの意である。つまり「宗」は人間を超越した偉大なる存在を意味する。

 「宗教」は、人生に超越した崇高・偉大なる絶対、すなわち神や仏を畏敬し、これを崇拝信仰して祭祀を行いそれによって安心・幸福を得て、以て人生の欠陥を補おうとする機能である。今日仏教・キリスト教・イスラム教が世界の三大宗教として最も大きな勢力を有している。

 当然のこととして宗教では幅広い意味での倫理観、人間にとっての基本的教え、教養の基、宗なる教えを欠かすことはできない。つまり人間社会の秩序を維持していくために必要な基本的取り決めは、信仰の有無に関わりなく古今東西を通じて共通のものがある。その根本的教えが全ての宗教での基本、宗教そのものであり、そしてその上に信仰が成立している。それは宗教教典に示されている。

 宗教を英語で言うとreligion であるが、「宗教」と「religion 」の意味するものは異なる。

 34年にわたって米国で禅を教えてきた臨済宗妙心寺派の佐々木承周氏(88歳)が第30回仏教伝道文化賞の功労賞に選ばれた。54歳で単身渡米、ロサンゼルス近郊で仏教の指導にあたってきた。受賞のあいさつでは「葬式という機会も、檀家(だんか)というメンバーも私にはなかった。でも、釈尊もメンバーなしに伝導なさったのだ、と考えてやってきた」と振り返り、さらに「創造神を持つ religion と、それを考えない仏教を宗教という同じ言葉で考えるから東西の誤解が解けない」と話されている。(朝日新聞 3261996

 「religion」の根元は「契約」である(religare to bind strongly, ligare= ligature. RE (A)+ligare to bind, fastenligature)。まず最初に神と人間との間に契約が成立し、それから神の教えが説かれる。契約とは神を信ずることである。契約を破ればたちどころに神の罰が下る。つまりreligionでは諸々の宗教の中でも絶対神への信仰・契約がその根源をなしている。

 ところが、仏教では神と人との契約は存在しない。つまり無条件に信仰するべき創造神・絶対神がないのである。人間みずから修行によって悟りを開き、解脱すなわち仏に成る・成仏するのである。修行の完成は凡人にとってほとんど不可能であることから大乗仏教が普及するようになったが、人間だれでも修行を完成すれば仏になれる。釈尊も、もとは人間であり神仏ではない。したがって神との契約を守る,あるいは破るといったことはなく,そのための仏罰もありえない。仏を裏切ることは自分自身を裏切ることになる。

 佐々木承周氏の言われるように創造神を持つ religionと、人間自らの修行によって成仏する仏教とを同じ「宗教」という言葉で考えても誤解が増すばかりである。

 

 日本の神道は先祖崇拝を旨とし、宗教としての教義を説いた独自の教典を持たないことが特異な点である。神道の神々は全て日本のご先祖様である。つまり絶対なる神仏、創造神を持たない。そのため神道の一部山岳信仰では仏教教典、とくに般若波羅密多心経を教理・儀礼の中に取り入れるようになり、教義のよりどころにしている。尾藤正英氏の指摘されているように、日本の神道は自然宗教あるいは原始宗教の範疇に含まれるものであろう。したがって神道での神は、契約を基礎とし絶対神を信仰する宗教religionでの「神・God」とはその性格は全く異なるものである。我が国の神社の祭神、祀られている神々は日本民族の歴史上何らかの功績があったと考えられる「ご先祖様たち」である。つまり共同体としての村、町そして国(近代の国家のことではない)にとって崇拝するべき先祖を祀る行為、祭祀が「神道」である。そのため日本の国境を超えて外国にまで布教されることはない。明治以降の近代においてもその基本は変わらず、「神」として新しく神社に祀られた日本人は数多い。それは宗教というより信仰そして先祖崇拝というべきものであろう。仏教における「仏」も元は人間であったが解脱した仏であるのに対し、神道での崇拝の対象は多数のご先祖、つまり人間が神道における「神」である。神道の神は「God」や「仏」ではないのである。

 最も新しく成立した神社は、平成10919日JR横浜駅東口地下街に出現した「ハマの大魔神社」である。祭神は「大魔人」、ご神体は「ボールを握る佐々木投手の右腕のレプリカ」。この神社に対して異議を唱える者がいたという話を、私は未だ聞いていない。それどころか多くのファンが参拝し賽銭を献じ、横浜ベイスターズの優勝を祈願している。これが日本教といわれる典型的宗教あるいは信仰、つまり神道というものであろう。

 この様に考えると、神道における「神」を一神教や仏教での「God」や「仏」と同一視することはできない。言い換えれば神道を含めて、すべての「いわゆる宗教」を「宗教」という言葉で一緒くたに論ずることはできないのである。政教分離は社会の常識となっているが、日本の神道を他の宗教と同様に考えることができるものなのだろうか、大いなる疑問が残る。八月十五日、招魂社、維新の志士達、西南の役、そして靖国。今年も同じ議論がくり返されている。 September 1998