The self-confidence conquers all.  C. O.
 

  C. O. とは、英語教師であった私の祖父の名の頭文字である。
 今から約70年前に出版された「手帖論語」に目を通していると、その一ページに祖父が生前書き込んだ言葉「 The self-confidence conquers all. C. O.」の文字が目についた。
 「子の曰く。天、徳を予に生(な)せり。桓たい(かんたい)其れ予を如何ん。」( 第七 述而篇 二二六 )に対する英訳である。

 孔子が衛の国から宋の国へ入らんとする所の、郊外の大きな樹の下で、門人に礼儀を教えて居られると。宋の師団長の桓たいが兵隊に号令を下してその樹を引き倒して、孔子を殺さんとした。門人は狼狽して、早くお逃げなさいと、せき立てたが,孔子は,なに大丈夫だ、天が我に徳を授けてくれているから、幾ら乱暴者が害を加えようとしても、加えうるものでないと、落ち着いていらした。桓たいもその尋常の人でないことを知って、恐がって退いた。

 自信と誇りと愛国心を失った日本人
 昭和20年8月、敗戦。一億総懺悔。廃墟の中から日本は復興を果たした。しかし戦後占領下の社会世相、学校教育方針の変更、さらに過去の戦争を日本の侵略戦争と位置づけ、その戦争責任を自虐的に追求するあまり、日本人は国際社会における自信も誇りも,そして愛国心も喪失してしまった。一部、いや多数の国民は歴史を正しく理解せず、自国の歴史に誇りを持つどころか劣等意識を持ち、政治家に至っては国際社会の中で主張するべきことも主張できず、戦後50年を経た現在、未だにただ謝罪をくり返すばかりである。自国に誇りを持てない国民が、世界から尊敬されることはない。国内においても社会的腐敗堕落はその極みに達している。日本の将来は暗雲に閉ざされ、これを如何に取り除くべきか、具体的方策は見あたらない。21世紀に日本は無い、と司馬遼太郎氏が嘆いたのは当然である。

 「国や人が国際化、あるいは国際人になるということは、愛国心の延長上にある。自国への愛国心を持たない者は相手の人も国についても正しく理解ができず、外国人との間に健全な国際関係は成り立ち得ない。」
 これは明治の人、新渡戸稲造先生の言葉である。先生は「太平洋の架け橋たらん」との理念に燃え、日本の心を世界に紹介する英文の名著「 Bushido ----- The Soul of Japan  武士道 日本の魂 1899」を著された。「Bushido」は世界各国語に訳されベストセラーとなり、世界の人々に深い感銘を与えた。
 米国第26代大統領セオドア・ルーズベルトはこの著書を読み、「武士道の心を持つ男になれ」と自らの子息を諭したという。

 何事につけても自信を持つということは、幅広い教養と知識と,そして徳育によるものである。劣等意識に基づく強がりは、自信ではない。いくら金持ちになっても、あるいは学問研究の専門家になっても、人を愛し国を愛する心がなければ相手を正しく理解出来ず、劣等意識が形を変えて現れ強者には卑屈な態度でのぞみ、相手が弱いとみれば幼児的残虐性を発揮して傲慢な言動をとることになる。今や、このような日本人が至る所で見受けられ、国内的に、さらに国際的にも日本人に対する不評の元凶になっている。これでは日本人は国際人として失格である。THE JAPANESE were the most alien enemy the United States had ever fought in an all-out struggle.(The Chrysanthemum and the Sword, Patterns of Japanese Culture)と、50年前Ruth Benedict が指摘した事が、未だに現在の日本人の中に見られるとは、まことに残念である。

 他人に指摘されて、はじめて自分の能力に自信を持つ、あるいは持たせてもらうのは真の自信ではない。これは他信であり、このような他信に花が咲いた例はない。
 真の自信は、絶対的優位性の自覚によって培われる。絶対的優位性とは、孔子のいう「天、徳を予に生せり」「仁の完成」「心の欲する所に従へども矩をこえず」の境地である。ここには劣等意識は影もなく、The self-confidence conquers all. の境地である。医学に携わり、弱者である病者に接する我々にとって、これは大切な素養として目指すべきものであるばかりでなく、広く全ての人にとって欠くことのできない徳目でもある。
 手帖論語を読み祖父を偲び、遥かなるこの道に想いをよせて。
April   1997