習わざるを伝えしか

 

 自分が十分に習熟したうえで学生や若い教室員を指導するのは当然と考える。しかし、時には不十分な経験と知識の結果、自信なく曖昧にその場をごまかすように指導することがある。そしてそのままその事を忘れ再調査することもなく、無責任に済ましている事はないだろうか。

私はそのことを虞て、ときに過去の指導内容をふりかえってみるが曾子にはとうてい及ばない。

 

「曾参(そうしん  前505→37?)    参は名、字は子興。魯の武城の人で孔子より四十六才若い。曾点の子である。孔子の死後、孔子の孫の子思を教育して学団を伝えた。この伝承はのちに孟子によって強調され、やがて宋の新儒学の道統説となって、曾参の地位は門人たちの中でも特別に重視されるようになった。」

 

 曾子日、吾日三省吾身。

 為人謀而不忠乎。

 与朋友交而不信乎。

 伝不習乎。 論語  学而編 四

 

曾子の日わく、吾れ日に三たび吾が身を省みる。

 曾参が毎日反省していたのであるが、「三たび省みる」は三つのことについて反省するという解釈と、何度も反省してみるという解釈がある。

人の為に謀りて忠ならざるか、

 人のために考えてやって、それが本当に真心からできたであろうか、そこに不純な心がありはしなかったか、と。どんな場合でも利害打算だけで動くのがいやなものであることは、われわれも知っている。やはりほんとうに心のそこからその人のためにと考える純粋な気持ちでありたいが、現実はなかなかそうはありにくい。ここに反省が必要になる。

朋友と交わりて信ならざるか、

 友達と誠実な交際ができたであろうか。友達との交際で相手を裏切るようなことはなかったか、ということである。信は嘘をつかなず、約束を忠実に守る誠実さである。とりわけ利害に毒されない純粋な友情を守るために最も大切なことである。

習わざるを伝えしか、

 「習う」とは繰り返し習って習熟することで、そのように自分がよく習熟して理解できたことでないものを,いいかげんなままで他人に伝えたのではないか、と反省する。これは教師としての立場での反省である。安易な受売りで物知り顔をするのは、だれしもおちいりやすい誘惑である。無意識のうちに、うかつにもそうした過ちを犯しはしなかったという反省である。(論語の世界 金谷 治 NHKブックス より引用)

 三つの何れの反省も我々にとって共感できることである。自分が十分に習熟できていないことを得々として物知り顔で人に話すことは、決してないようにしなければならない。これは人に教える立場にある者にとって片時も忘れてはならないことである。もちろん、習熟する事の意味を理解できない者は論外である。

April 1999