宗教  Be ambitious  仁

 

 人間は、生来分別のない動物である。欲望を果たすために本能的に行動する。しかし、共同生活を営むためには個人の欲望を制限し、団体の秩序を守らなければならない。人間ばかりでなく集団行動をとる野生動物の社会でも同様である。人間に育てられた小猿が猿仲間の掟を身に付けていないために、猿の群の中に戻れなくなったという例もある。集団生活ができるためには教育が必要である。

 人間にとっての教育は生まれたときから始まる。生まれたばかりの何も知らない人間に教える「教え」の内容は、良いものから悪いものまで、それぞれの社会,家庭環境によって違ってくる。しかし人間社会を維持していくために必要な基本的取り決めは、古今東西を通じて共通のものがある。社会人として一人前に成長した人は、いわゆる社会常識を備えている人であり反社会的行動をとることはない。そしてその根本的教えが宗教である。

 我々の住む世界は道徳によって秩序が保たれる道徳の世界であり(道徳・不道徳の世界、Moral vs Immoral)、動物たちの自然の世界は本能で生きるために自分の意志で歩むことができない無道徳の世界(Non-Moral)である。そして道徳を超えた世界が宗教の世界(Super-Moral)である(角谷晋次 キリスト教概説から)。この意味からいうと孔子が説いた儒教も宗教の一つといえる。

 宗教の「宗」は、祖先の廟屋、まつりの主体、まつり、先祖・本家・本源などの意である。つまり「宗」は人間を超越した偉大なる存在を意味する。

 「宗教」は、人生に超越した崇高・偉大なる絶対、すなわち神や仏を畏敬し、これを崇拝信仰して祭祀を行いそれによって安心・幸福を得て、以て人生の欠陥を補おうとする機能である。今日仏教・キリスト教・イスラム教が世界の三大宗教として最も大きな勢力を有している。

 日本の神道は先祖崇拝を旨とし、教義を説いた教典を持たない。神道の神々は全てご先祖様である。つまり絶対なる神仏を持たない異質の宗教というべきか、あるいは原始宗教の範疇に含まれるものであろう。

 旧約聖書・出エジプト記にみる、いわゆるモーゼの十戒の後半は、仏教・キリスト教・イスラム教の三大宗教に共通する教えであり戒律である。さらに言えば,この戒律は特定の宗教に固有のものではなく、人間社会にとって欠くことのできない教えであり、道徳でもある。宗教における戒律とは違って、法律は最低限の社会規約である。しかし、この法律さえも守らない新興宗教や反社会暴力集団が存在する。

 宗教を英語で言うとreligion であるが、「宗教」と「religion 」の意味するものは異なる。

 34年にわたって米国で禅を教えてきた臨済宗妙心寺派の佐々木承周氏(88歳)が第30回仏教伝道文化賞の功労賞に選ばれた。54歳で単身渡米、ロサンゼルス近郊で仏教の指導にあたってきた。受賞のあいさつでは「葬式という機会も、檀家(だんか)というメンバーも私にはなかった。でも、釈尊もメンバーなしに伝導なさったのだ、と考えてやってきた」と振り返り、さらに「創造神を持つ religion と、それを考えない仏教を宗教という同じ言葉で考えるから東西の誤解が解けない」と話されている。(朝日新聞 1996326

 「religion」の根元は「契約 である(to bind strongly, ligare = ligature. to bind, fasten)。まず最初に神と人間との間に契約が成立し、それから神の教えが説かれる。契約とは神を信ずることである。契約を破ればたちどころに神の罰が下る。

 ところが、仏教では神と人との契約は存在しない。人間みずから修行によって悟りを開き、解脱すなわち仏に成る・成仏するのである。人間だれでも、修行を完成すれば仏になれる。釈尊も、もとは人間であり神仏ではない。したがって神との契約を守る,あるいは破るといったことはなく,そのための仏罰もありえない。仏を裏切ることは自分自身を裏切ることになる。

 佐々木承周氏の言われるように創造神を持つ religionと、人間自らの修行によって成仏する仏教とを同じ「宗教」という言葉で考えても誤解が増すばかりである。

 論語にみる孔子の教えは、君子たるものの心構えを説いたものである。孔子の考えた君子とは、当時の施政者である貴族たちの目指すべき人格の理想像である。更に従来の貴族そのままの人格ではなく、仁徳を備えた人間としての理想の人格を目指していた。弟子の子貢が君子について質問したとき孔子はこう答えた。「まず自分の身に行って、しかる後にその事を口にする人である」と。(為政篇 第二 四十三、子貢君子を問う。子の日く、先ず其言を行いて、而して後之に従う)そこには強い実践の尊重があり、無責任な貴族体制に対する批判がある。しかし労働者の味方と自称する人たちは「君子とは支配階級」である点をとらえ、労働者を支配する貴族たちへの教えは認められないと、「批孔批林」を唱えた。そして、政治的問題を大衆の目から逸らすために各地の孔子廟を多数破壊させた時代があった。しかし冷静に論語の内容を味わってみると、いつの社会にもどのような人にでも納得できる内容である。

 国栄えて人心定まらず、衣食足りて栄辱を知らず礼節を知らず、利によって動き義によって動かず、万事金の世の中。法律にさえ触れなければ何をしてもよいと主張する某テレビ局の報道記者も話題にのぼった。

 人として行うべき道、仁義礼智信・五常の精神を失い政・官・民ともに精神文明が腐敗堕落してしまった現代社会の日本人たちにとって儒教は適切な、そして大切な教えである。

 千葉県柏市、ここは我が国の20世紀梨の発症の地である。明治時代来日したDr.Clarkは柏の農家の人たちにこの梨の栽培法を指導し、その普及に貢献した。現在では千葉県よりも鳥取県の20世紀梨が有名である。

 Dr.William Smith Clark18261886)はBoys, be ambitious の言葉でも知られている。マサチューセッツ農科大学の学長であったが、在職中の1876年招かれて来日、札幌農学校の創設に努力するかたわら、学生たちにキリスト教精神にもとづく訓育をほどこした。1年たらずの滞日であったが、その精神教育は内村鑑三・新渡戸稲造らに深い感化を与え、明治のキリスト教界・教育界に大きな影響を残した。北海道を去るに臨んで遺した言葉が「Boys, be ambitious like this old man.」である。

   Boys, be ambitious like this old man.

Be ambitious not for money

nor for selfish aggrandizement,

not for that evanescent thing

which men call fame.

Be ambitious for the attainment

of all that a man ought to be.

Boys, be ambitious. 少年よ 大志を抱け」とは、何でも良いから大きなことを目指せということではない。

 金も名誉名声も、利己的出世欲もその対象ではない。ただ人間としてあるべき、あらゆる事柄を修得するために大志を抱けというのである。 Dr.Clark の教えをうけた新渡戸稲造博士はその教えを実践し、「教育とは人格を高尚にすることである」と説いている。

 孔子の説いた教えの究極は「仁」である。君子が目指す最高の目標は、完成された人格として仁の徳の実現であるし、論語の学問というものも結局はそれを志すことであった。それでは「仁」とはなにか。論語を読んで「仁」を定義づけることは難しい。最も簡単でわかりやすい解釈は、人々を愛するということである。孔子は弟子に仁とはなにかと問われたとき「子日く、人を愛すと」と答えている。

 しかし、仁を単なる愛情と見ることはできない。「巧言令色鮮なし仁」「剛毅木訥、仁に近し」。生地のままの真っ直ぐな、すなおさを善しとしたのである。誰の心にも自然に備わっている真心、そして人間愛というべき深い同情心、孔子のいう仁の徳は本来、人として自然な心情に基礎をおくものである。(金谷 治著 論語の世界、NHKブックス)

 Dr. Clark のいうBe ambitious for the attainment of all that a man ought to be. は、孔子の説く「仁」と同じ主旨であり五常の精神の実践である。理想の人格の完成(that a man ought to be)をめざすことに be ambitious たれ、と Dr. Clarkは学生たちに言葉を遺したのである。その究極の境地が孔子のいう「心の欲する所に従えども矩をこえず」であり、また仏教における悟りの境地でもある。洋の東西を問わず、人間としての根本は異なるものではない。

 

 医は仁術という。医療人は病者に対して強者であり、弱者である病者に仁の心をもって接しなければならない。手術室に搬入されてきた患者の姿は、まさに弱者である。

 ここで安中 寛氏(臨床麻酔 V19,8, 1995)の言葉を紹介しよう。「人間社会では強者と弱者が共存する。前者が後者を助けるのは当然である。医者の使命は、素手で病魔と闘っている患者を助太刀することである。武器は「学・術・心」であり、これを駆使する者が真の医者である。更に生きることは社会(患者)の為に尽くすことである。真の医者をめざして生きること、それが障害児が教えてくれた、我々が越えねばならない最も高いハードルである」。

 私は自分の経験を振り返って見るとき、常に仁術に値する医療を実践してきたであろうか。反省せざるを得ない。

 仁の心を失った医療社会は、いや医療に限らずどのような社会でも次第に荒廃してしまうだろう。私は「仁」,そして Be ambitious like this old man の心を持ち続けたい。 おわり

January 15th 1997