恩師

「稿を終えるにあたり,終始ご懇篤なご指導ならびにご校閲を賜りました恩師OOOO教授に深甚なる感謝の意を表します。また・・・・・・・・・・・・・・・」

 学位論文の文末によく見る謝辞である。著者が心の底から恩師と考えて謝辞を述べているのか、あるいは形式的に、慣例として記載しているのか、私は判断できない。

 かつて、学位論文を提出した後で「何が恩師だ。あんな教授は恩師に値しない。」と憤慨しヤケ酒に酔ってわめき散らしていた男を知っている。心ならずも「恩師」と書く羽目になった自分に腹をたてているのか、あるいは恩師を罵っているのか、私には判らない。

 備中松山藩、今の地名では岡山県高梁市である。

 幕末,山田方谷はこの松山藩の財政と制度の大改革をし、大功労者として尊敬されている。

 昭和3年に開通した倉敷と新見を結ぶ伯備線に、方谷駅がある。この駅名は、山田方谷の人徳(いや、仁徳というべきか)をしのぶ地元の請願運動によって、駅名に人名は認められないと反対する鉄道省を説得し、やっと了解させた結果つけられた駅名である。人名を駅名につけているのは、日本ではここだけである。

 越後長岡藩の河井継之助は、備中松山藩の重役山田方谷の下に入門したが万延元年(1860)の正月、継之助は方谷のもとを辞することになった。在学期間はわずか一月半であった。

「そうか、やはり発つのかえ」

と、方谷はさすがに別れを惜しみ、毎朝、継之助の顔をみてはつぶやいた。涙をにじませていた。

「何もしてやれなかったが、少しはわしから得るところがあったか」と、最後の夜に方谷がいうと、継之助は生涯でもっとも充実した日々でございました、と答えた。世辞ではなかった。

 が、方谷はむろん世辞だと思った。方谷は忙しくて継之助の読書の相手にさえなったことがないのである。

ただ、継之助は観察した。ひたすらに方谷を観察しつづけた。その観察が充実しきったものであった、と継之助はいったのである。

 ・・・・・・・

 別れる朝、継之助は門を辞し、丸木の橋を渡って対岸の街道へ出た。

 方谷は門前で見送っていた。

 継之助は路上に土下座した。土下座し、高梁川の急流をへだてて師匠の小さな姿をふしおがんだ。この諸事、人を容易に尊敬することのない男が、如何に師匠とはいえ土下座したのは生涯で最初で最後であろう。(司馬遼太郎著 峠より)

 私はこの一文を読んで感ずることは、「継之助の土下座姿にこそ真の恩師をみた想いがする」ということである。継之助はわずか一月半の間、ただ方谷を観察していただけである。しかし、師事した期間の長さや言葉は問題ではない。土下座の意義も判らずに簡単に土下座する者が代議士の候補者の中にも、あるいは我々のまわりにもいる。しかし河井継之助の土下座こそ、もっとも有意義な、そして感動を与えるものである。

 私はこの世に生を受けてから、数え切れないほどの人たちから多くの事柄を教えられ、学んできた。今、私にとって恩師と呼べる人はどの人か、振り返ってみるときそれは小学校中学校時代の先生方に多い。

 世の中誰でも、多くの指導者によって知識や技術の指導を受けている。しかし、そこに精神、心の琴線に触れる何かが伴ったとき、その恩に感謝する気持ちが沸きあがり、さらに自己の人格形成にも強い影響が与えられるのではないか。困ったとき助けられ恩を覚えるのは、心に触れるものがあるからである。

 知識や技術の指導だけではなく、自己の人格形成に深く影響を与える指導者こそ自分にとっての恩師である。河井継之助にとっての山田方谷、内村鑑三・新渡戸稲造にとってのDr.Clark。彼らはみな専門的知識や技術だけではなく恩師による精神教育によって、自己の人格形成に大きな影響を受けている。

 学位論文文末の謝辞を読む度に感ずることを、想い出すままに。

平成92