地球法廷  その2

 

 平成10年6月、NHK地球法廷の市民討論「生命操作」をテーマとして私の提示した討論C 「人とヒト」に対して栗屋剛氏から興味ある反論があり、参考になった。そこで、NHK ホームページ「地球法廷」の討論の存在を知らない人たちにも参考になると考え紹介したい。

 まず栗屋氏の反論、そしてその反論に対する私の反論を以下に紹介する。

 

TO::No.10大澤昭義 意見NO.65 臓器売買       粟屋剛(男/47/教員)

 No.10の大澤さんは以下のように述べておられます。1 人体を物として扱う理由は臓器移植との絡み以外には考えられない。2 臓器移植の最大の問題点は他人の命を犠牲にする点にある。3 臓器売買は生命倫理の基本に反する。これらの三点について、失礼を顧みず、反論を述べてみようと思います。

 1 について。「人体を物として扱う理由は臓器移植との絡み以外には考えられない」とはいえないと思います。人体を物として扱う理由は臓器や組織や細胞の移植以外にもいろいろあります。例えば、組織、細胞、DNAなどの医学研究・実験用の利用、バイオテクノロジー用の原材料としての利用、薬物試験用の利用などです。これらは現に、多くの国で行われています。 

2 について。「臓器移植は他人の命を犠牲にするものである」といえるかどうかは、脳死移植についていえば、脳死が死であるか否かにかかっています。仮に脳死が死でないなら、脳死者からの臓器移植はまさに御指摘の通りだと思います。しかし、脳死が死であるなら、当然、そのようにはいえません(「脳死は人の死か」という点については、私は「脳死が人の死であると、アプリオリにはいえない」という結論に達しています。このことは、日本生命倫理学会の機関誌(第4巻第1号)を含めて、いくつかの雑誌に書いたことがあります)。また、通常の死者からの移植、例えば、死体腎移植の場合など、やはり、他人の命を犠牲にしているとはいえません。

 3 について。一般論として「臓器売買は生命倫理の基本に反する」といえるかどうかはおくとして、たとえ有償であっても臓器提供によって命が助かる場合があることは当然です。私はインドやフィリピンで臓器売買の実態調査をしてきました(これらの調査の結果は「ビジネスとしての臓器売買」メディカル朝日1995年1月号、「フィリピンにおける臓器売買」法学セミナー1993年6月号、「臓器売買の諸問題」田代俊孝編『いのちの未来・生命倫理』(1996年、法蔵館)などで紹介しています)が、理屈ではなく実感として、臓器売買を「悪」と決めつけるわけにはいかないと思うに至りました。今でもそう思っています。インドのカルカッタで、貧しい少年(生まれつき腎臓が一つしか機能しておらず、残りの腎臓も機能が衰え始めていた)が募金活動で集まったお金で腎臓移植を受けて元気になったケースがありました。このケースは臓器売買でした。地元では美談として扱われていました(このケースは「臓器移植と臓器売買禁止の是非を問う」ばんぶう1995年2月号で紹介しています)。

 ところで、私は、「臓器売買は生命倫理の基本に反する」というならば、同時に、臓器移植自体の倫理性も検討されなければならないと思います。私は、そもそも、臓器移植推進キャンペーンの一つとしての「移植は善、売買は悪」というテーゼは一種のドグマ(固定観念)であると思っています。通常、臓器売買を「悪」とし、法律で禁止する主要な根拠の一つとして、それが「人体ひいては人間の尊厳を汚す」という点があげられますが、仮にここで「人間の尊厳」の概念を持ち出すことが正当であるとするならば、私は、そもそも、有償であれ無償であれ、すなわち、臓器売買であろうとなかろうと、臓器という人体部分(部品)の他者への提供自体が人体ひいては人間の尊厳を汚すものであるといわざるを得ないと思います。最近、フランスで脳死者からの腕の移植が実施されましたが、私は、有償であるか無償であるかということより、臓器を含めて人体部分(部品)の他者への提供が法的、倫理的、社会的に許容されることの方がはるかに重大な問題を含んでいると思います。私たちの社会は、すでに人間の尊厳などという抽象的価値よりも臓器や組織を必要とする目の前の患者の救命や生活の質の改善の方が優先するという価値判断を下してしまっています。私たちはこのことを自ら認識しておく必要があると思います。 

 

 栗屋氏の反論に対する私の反論。

 

TO: NO.57、NO.65、NO.68 栗屋剛

脳死診断と臓器摘出

 栗屋剛氏が私の意見について関心をもたれ、ご意見を述べられたことは私にとって大変参考になり嬉しく思っております。

 さて、栗屋氏は私の提示しました文章の一部を抜き出し、その前後の文脈を無視したうえ一部を改変してご意見を述べられておられますので、私の主張する主旨からは逸脱したものと理解しました。もう一度全文を丁寧に正確に読み返していただければ納得頂けると思います。

 私は脳死者からの臓器提供に反対しているのではなく、臓器提供に賛成する立場で意見を述べているのです。しかし、臓器移植が今後盛んになるにつれ、避けることのできない予想される弊害を危惧しているだけであります。前回は字数制限を考慮して簡潔に文章をまとめたため誤解を招いたものと思います。その誤解を解くためにやむを得ず、以下長い文章になります。

 「人のからだをものとして扱う理由は臓器移植との絡み以外には考えられない」という私の主張は、この討論のテーマ「生命操作」の一環としての脳死者からの臓器摘出にその論拠があるのです。

 脳死が人の死であり、その「からだ」は「死体」、すなわち「もの」として扱ってよいのだからその臓器を摘出してもよいとする人がいます。しかし、この理屈は意味のないことです。脳死者からの臓器摘出のために「脳死は人の死である」そして「その遺体はものである」と定義する必要性は倫理上、どこにもありません。臓器提供者のからだ、摘出した臓器、臓器提供後の遺体、さらに医科大学の学生解剖実習用の人体を「もの」とする理由も必要も倫理上はありません。現実に多くの人体臓器が医療の現場、医学の分野で利用されています。そしてもっとも広く行われている一つが輸血です。

 物であってもなくても法的には人体からの臓器摘出は可能であり、現実に刑法適用の除外例として傷害の罪や死体損壊の罪に問われることなく臓器の摘出が行われています。刑法適用除外の根拠は「遺体はもの」「人体の一部はもの」であるからではありません。

 しかし、脳死者からの臓器摘出は刑法の殺人の罪にあたります。もちろん臓器提供の意志表示をしている人からであってもです。そこで臓器移植を求めている不幸な病者のため、法律上で脳死を人の死とする定義が殺人罪不成立に必要なのです。心臓停止の前に臓器を摘出しなければ移植が不可能であるための便法なのです。遺体はあくまでも遺体であって、いわゆる「もの」とする必要はなく、また脳死者のからだは死体ではありません。しかし、法律で脳死を人の死と定義しても臓器を提供してくれる善意の人がいなければ移植手術は実現しません。臓器あるいは遺体提供の是非を決める根拠は提供者の倫理観のみが全てであり、また第三者が提供を強制できるものでもありません。したがって臓器移植でしか助かる道のない病者だからといっても、臓器移植を受ける基本的権利を保有していると主張することはありえません。ただ提供者の崇高な倫理観に基づく善意に対し謙虚に感謝すること、彼らにできることはそれだけです。

 脳死と人の死について栗屋氏は「仮に脳死が死でないなら、・・・」とも「脳死が人の死であると、アプリオリにはいえない」(No.65)とも述べていますが脳死は脳の死であって、どのような理屈をつけても決して人の死ではありません。これは医療人ひいては人類の常識であり、医療上にも倫理上でも議論の対象になりえない事柄です。脳死は事実ではなく、単に医師のみに認められた診断権によって「脳は死んだ」と医師が診断した結果が脳死なのです。それを臓器摘出のために便法として法律上「人の死」と定義しただけのことです。法律上脳死を人の死とする理由は、戦場の兵士が敵兵を殺戮しても殺人罪が成立しないのと同じ根拠を求めているのです。

 昏睡状態の患者を前にして脳死であると診断することが医師にとって如何に難しいことか、考えられたことがあるのでしょうか。脳死を患者の死として死亡診断書を書いた医師がいたなどとは、私は一度も聞いたことがありませんし、今後もないでしょう。心臓の不可逆的停止をもって患者が死亡したと確認するのが医師の常識です。古来、心臓の停止によって人々は人の死を納得し、確認してきたのです。

 臓器提供者の生命を失う危険性が少ない生体および遺体からの臓器摘出に関連しての議論が公にはないのは当然のことです。なぜ脳死者からの臓器摘出について議論が起こるのか。現在の医学常識では脳死者を救うことは不可能ですので、栗屋氏のいう人体の有効利用(No.68)の観点から救命医療継続を断念して臓器摘出を認めようというのです。しかしごく稀に蘇生した例や、最新医学の進歩の結果低温療法による脳蘇生の成功例もみられ、脳死からの蘇生の可能性が高まってきたのです。そのため誤診であるかもしれない脳死と診断された上での臓器の摘出に反対する意見も当然起こります。脳死の診断は臓器摘出を前提にして行われるのです。脳蘇生の可能性があるのに早まって脳死と栗屋氏が診断されたとき、自分の心臓を他人へ悔いなく提供することができるのでしょうか。脳死者から臓器が摘出される「時」は、脳の蘇生が全く望めないと医師が判断したときです。その判断が正しいかどうかは別の問題です。つまり脳死の診断が医師のみに認められているということは、脳死は「事実」ではないのです。栗屋氏のいう(No.57)物理的、医学的、社会的、法的の四つのレベルの問題として人体を考えるのではなく、生命操作における人体の扱いは医学上ではなく医療上の問題として扱うものです。そして「脳死」は脳の死であって「人の死」ではないのですが現状では臓器移植でしか助かる道のない病者のためにやむを得ない次善の決断として、救命不可能と考えられている脳死者からの臓器摘出を認めるというものと私は理解しています。

 もっとも旧くから定着している臓器移植、つまり輸血のための採血や骨髄移植、摘出骨の他家への骨移植、皮膚移植、そして栗屋氏の指摘する研究実験のための「組織、細胞、DNAなど」は提供者の生命には危険を与えません。ですからこれらについて「ものであるかないか」と公に議論されたことがないのは当然ではありませんか。もちろんこれらの臓器組織を「もの」とする必要もありません。しかし、これら臓器の摘出にも提供者の同意が必要なのです。

 栗屋氏は「物的人体論」(No.57)と題して人体が事実として「物」であるといわざるをえないと述べています。そして、「人体功利主義」すなわち人体の資源としての価値を有効利用しようとする立場の根拠もあげています(No.68)。また「人体を物として扱ってよいか悪いかという問題(価値判断の問題)」(No.68)についても述べています。これは全く無意味な主張と思いますが、この意見には私の主張との共通点があると、一部認めます。しかし、人体の一部が既に医療の現場で使用されてきた事実をみれば、ことさらに「物的人体論」とか「人体功利主義」などと理論づける意味は全くなく、人体を物としてもしなくても同じことなのです。医学医療の現場での人体の扱いに明確な基準が必要という立場での議論であれば、栗屋氏の主張はもっともな意見です。しかし、すでに医学および医療の分野では倫理上になんら支障なく「人」と「ヒト」とを使い分けています。人の体は事実として「物」であるか否かに対する答は、般若波羅密多心経の中にも説かれています。「人」と「ヒト」、「物」と「もの」との定義(No.10)を提示しませんが話を進めます。

 医科大学における解剖学の実習では遺体による解剖実習が長年行われていますが、解剖体が「ものか、ものでないか」という議論を私はしたことはないし、もちろん聞いたこともありません。しかし、「もの」と言いたい人は「もの」と言えばいいのです。しかし、私は「もの」とは考えていません。日本では昔から学生実習のために、自分の死後の遺体提供を申し出ている人たちもいるのです。したがって人体、あるいはその一部が「もの」であるかないかという議論は日常的にはあり得ないことであり、またその必要もありません。「人の体を物として扱ってよいのだろうか」という問の根拠は「人間の尊厳」でも「人体功利主義」(No.68)でもなく、また無意味な設問でしかありません。

 人体の物としてのさまざまな利用法を羅列し、医学的観点からの人間機械論を挙げ「人体は物といえる、だからこそ臓器移植が行われる」(No.57)という主張からは、「人間機械論」とは何を意味しているのか理解できません。おそらく人体が人工的機械と同じ「もの」と主張したいのでしょうが、臓器移植を栗屋氏の主張のような単純な根拠で説明できるものではありません。さらに法的観点からの意見を羅列していますが(No.57)、人間社会運営上の秩序を保つための最小限の基準を設定したのが法律であって、いくらでも改変のできる法律は絶対的基準にはなり得ません。そのうえ法律上の所有権を論じながら遺体の所有権を持つ死者(No,57統治論)の同意を考慮せず人体の利用、つまり脳死者あるいは遺体からの臓器摘出を前提にした臓器移植を指して主張しているのであれば全くの矛盾理論としか言い得ないでしょう。そうであれば、人体は物質性と精神性の二面性を持っていることを認めながら(No.57)、「臓器移植」と「脳死者からの臓器摘出」とは全く別の次元の問題である事に栗屋氏が気付いていないためと私は考えます。

 

 

TO:NO.64、NO.65、NO.68 栗屋剛

臓器移植と生命倫理

 さらに栗屋氏の意見No.65に対して話を続けます。

 「臓器移植は他人の命を犠牲にするものである」とは、私の文章のどこにも記載されていません。私の主張は、臓器を摘出された脳死者の生命が犠牲になるのだというものではなく、十数年前米国で発表された小説「Coma 、コーマ」の作者の考えのように、犯罪誘発の可能性を私は危惧するのです。この小説を荒唐無稽の作り話として無視することはできません。故意に人為的脳死者をつくり、あるいは健康者を誘拐してその臓器を略奪して死亡させ、奪った臓器を金儲けのための商品として売買する事態を、栗屋氏は想定したことがあるのでしょうか。私のいう「他人の臓器をその人の生命を犠牲にして売買する」というのは、金儲けのための犯罪、殺人を指しているのです。この犯罪は一件でもあってはならないのです。常識人には思いもつかない犯罪が至るところで起こっている昨今の世情をみてもおわかりでしょう。

 私は「臓器売買は生命倫理の基本に反する」とは主張していませんし、そのようなことは私の文章のどこにも記載されていません。「売買物とすることは生命倫理の基本に反する行為である」と主張しているのです。つまり「売買物とする」とは利益追求のための商業商品として売買することです。自分の臓器を売って何が悪いという人もいますが、自分の臓器であっても金儲けの商品として臓器を扱うことは、既に我が国においてもその弊害の大きさが立証されております。つまり輸血のための売血制度が廃止され献血のみが認められている現状からも理解できるでしょう。さらに悪質な例は社会的弱者につけこんでその人の臓器を扱い利益を得ようとする者まで出てくるのです。単純に「移植は善、臓器売買は悪だ、善だ」とか「人間の尊厳を汚す」(No.65)とかいう事は、医療の現実とは全く次元の異なることなのです。

 私は移植臓器を無償で提供するべきだとは主張していません。臓器摘出には諸々の費用がかかります。無償で提供することは現実に不可能です。有償であるから商品としての売買物であるといっているのではなく、単に利益追求のためのみの商品として扱ってはならないのです。医療の現場には種々の人工臓器や輸血血液、その他の臓器が日本赤十字社をはじめ業者たちによって有償で提供されています。これを利益追求の商業主義であるといえるのか、さらに有料であることを根拠に医療行為そのものが利益追求を目的としているといえるのか、人々の意見を伺いたいものです。

 栗屋氏は「臓器移植自体の倫理性も検討されなければならないと思います」(No.65)とも指摘している点に関しては、私はまったく同感です。そもそも人類にとって医療行為がどのような意義をもつのか、容易に答えは得られません。紀元前から人類のみが行ってきた医療行為は自然淘汰という自然の摂理に反する行為であるともいえます。自然のままに生きているのは人間以外の生物達です。もちろん、自然のままに生きることが最善であるか否か、議論の分かれるところです。しかし、自然のままに生きることを望む立場の人は臓器移植など必要なく、臓器の提供も無意味と考えるでしょう。現実に断固と死を賭して移植を拒否している人たちがいます。また自然のままに死にたいと思う人は、終末医療での quality of life 、つまりより良い終末人生を求め延命治療を拒否するでしょう。安楽死はその変法です。

 「日本では欧米に比べて臓器提供者が少ないのは、日本には博愛主義の文化がないからだ」そして日本では「親子間の臓器移植は世界一多い」(No.64)という栗屋氏の指摘は、脳死者からの臓器摘出に疑問をもつ人たちの真の理由に思いが及ばない結果ではないでしょうか。つまり「脳死者」イコール「物」からの臓器提供という思考は短絡的論理です。そして生体からの臓器摘出では提供者の生命は損なわれないことを前提にしているのを見落としています。全ての人を等しく愛する博愛主義者であることのみで自分の臓器を提供できるのでしょうか。博愛主義をそれほど単純なことで決めつけることはできません。臓器移植推進キャンペーンについても述べていますが(No.65)、このキャンペーンとは何のためのキャンペーンであり、そして臓器提供推進なのか臓器移植手術推進をめざしているのか、栗屋氏の考えを伺いたいものです。臓器の「摘出」と「移植」とは次元が別なのです。

 栗屋氏は「臓器を含めて人体部分(部品)の他者への提供が法的、倫理的、社会的に許容されることのほうがはるかに重大な問題をはらんでいる」(No.65)と指摘しています。もちろん私も同様に考えますが、すでに長年にわたって死亡体からの臓器摘出すなわち角膜移植や腎移植、さらに献血による輸血や骨髄、臍帯血その他の臓器移植が広く行われてきました。これは現実にある程度の社会的倫理的そして法的に同意が既に得られていると言えます。栗屋氏が「・・・はるかに重大な問題をはらんでいる」と指摘するのは、今さら何をか言わんやの想いがします。栗屋氏のいう臓器移植とはこの生命操作の討論の中で何を指していっているのか、そして医療の現状について栗屋氏の認識にはあまりにも偏りと、知識の不足があるように私には思えます。

 また栗屋氏の主張からは、前提として脳死者からの臓器摘出は容易な行為であるとしている、あるいはその困難性に気付いていないと受け取れます。しかし、単に法律上倫理上脳死者からの臓器摘出が是認されても昏睡患者を脳死と診断するには難しい問題があり、しかもその診断は必ずしも容易ではありません。それ故に臓器摘出のための脳死診断には厳格な基準を設けたうえ、その診断者は麻酔科医に限るべきと決められているのです。そして脳死の診断には誤りや意図的な作為があってはならないのです。30数年前、札幌医大胸部外科教授 和田壽郎氏の善意に基づく行為を悪意に基づく疑いがあるとして殺人罪で告発した人たちの、その根拠はなんであったのでしょうか。この事件は極めて重要なことを示唆しています。

 「事実(および近未来予測)を見据えた新しい価値(観)の創造が必要になってきている(No.68)」のではなく今や医療の原点、すなわちヒポクラテスの誓詞の精神に則った価値観の再構築が必要であると私は考えます。

 私は脳死者からの臓器提供には基本的に賛成ですが、諸々の条件を考慮すると以上述べてきた結論に達したのです。最後に一言付け加えます。栗屋氏の主張する意見No.57、No.68からは、いわゆる脳死者からの臓器摘出に栗屋氏自身が賛成なのか反対なのか、私には理解できません。

Feburary  1999