学問は臭き菜のようなり

知性と知識・人格と学問

 実験研究、論文制作、学術誌への投稿、われわれの日常的業務である。しかしいかに研究業績を積んでも、その基本としての人格形成に欠陥があれば学問業績もただ臭みを発するのみ

・ 学問は臭き菜のようなり、よくよく臭みを去らざれば用いがたし。少し書を読めば少し学者臭し、余計書を読めば余計学者臭し、こまりものなり。 三浦梅園 知識でなく品性が、頭脳でなく霊魂が琢磨啓発の素材として選ばれる時、教師の職業は神聖なる性質を帯びる。われを生みしは父母である。我を人たらしむは師である。父母は天地のごとく、師君は日月のごとし。 実語教 「その意味するところは、知識はこれを学ぶ者の心に同化せられ、その品性に現れる時においてのみ、真に知識となる、というにある。知的専門家はただの機械であると考えられた。知識そのものは道徳的感情に従属するものと考えられた。 新渡戸稲造」   三浦梅園(1723〜89):江戸時代の哲学者、家業は医、20歳ころから天文、和算の研究、自然観察に没頭。30歳のとき「反して観、合わせて観、その本然を求むる」と自然界の法則を知った。これまで中国にも日本にもこれほどの弁証法的論理はなかった。 実語教: 「山高故不貴、以有樹為貴」に始まる平安末期の選作。

・ 節義はたとえていわば人の体に骨あるがごとし。骨なければ首も正しく上にあることを得ず、手も動くを得ず、足も立つことを得ず。 されば人は才能ありとても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば、不骨不調法にても、士たるだけのこと欠かぬなり。     真木和泉

・ 仁は人の心なり、義は人の路なり。 孟子

・ 贈り物をするときの挨拶:
 アメリカで贈り物をするときには受け取る人に向かってその品物を褒めそやす。日本ではこれを軽んじて賎しめる。

その底意は

アメリカ人: これは善い物です。善い物でなければこれを君に贈りません。善き物以外の物を君に贈るのは侮辱ですから。 
 日本人: 君は善い方です、いかなる善き物も君には相応(適)しくありません。この品物をば物自身の価値の故ではなく、記(しるし)として受け取ってください。最善の贈り物でも、それをば君に適わしきほどに善いと呼ぶことは、君の価値に対する侮辱であります。

  この二つの思想を対照すれば、究極の思想は同じである。アメリカ人は贈り物の物質について言い、日本人は贈り物を差し出す精神について言うのである。 新渡戸稲造

・ 武士道においては理財の道をば卑(ひく)きもの ー 道徳的および知的職務に比して卑きものと看なすことを固執した。・・・しかしああ!現代における拝金思想の増大何ぞそれ速やかなるや。 新渡戸稲造

・ あらゆる種類の仕事に対し報酬を与える現代の制度は、武士道の信奉者の間には行われなかった。金銭なく価格なくしてのみなされうる仕事のあることを、武士道は信じた。僧侶にせよ教師の仕事にせよ、霊的の勤労は金銀をもって支払われるべきでなかった。価値がないからではない、評価しえざるが故であった。 新渡戸稲造