無の用の教養

 

 教育の究極目的は「学問を通して人格を高尚にする」ことであり、人間を造り出すのが教育であると新渡戸稲造博士は述べておられる。

 教育は、専門の学に汲々としているばかりで世間のことは何も知らず、他の事に一切不案内で、また偏屈で、いわゆる学者めいた人間を造るのではなく、すべての点に円満なる人間を造る事を第一の目的としなければならない。一つの専門性を極めるということではなく、学問を通して人格を高尚にすることであるということを新渡戸博士は主張した。センモンセンスよりもコンモンセンス(常識、さらに良識)であると述べた所以である。

 新渡戸博士は教育の最終目的を、ただ単に知識を蓄積することではなく学ぶことによって高尚な人格を造り、人と人との交わりを円滑にしてゆくための「修養」であると述べている。そしていわゆる学者は人間を造らず、論理学を刻み出す機械にすぎないと断じている。  

 

 曾野綾子さんがコラム「自分の顔、相手の顔」で、仕事に関係の無い本を読むことをすすめておられた。(産経抄 9月2日)

 東洋ではじめて「無」の思想を唱えたのは春秋戦国時代・楚の老子である。「容器は粘土をこねてつくる。その容器にはうつろな部分があってこそ、物を入れるという容器の用が生まれる。部屋は戸口や窓という無用の部分をつくってこそ、部屋という用をもつことができる。すべて有が有としての用をもつのは、その裏に無の用があるためである」。

 その思想・無の用の哲学を完成させたのが宋の荘子である。荘子は世俗の名利にとらわれた人々をあざ笑い、そして現実の煩わしさを超越した境地に至るためには自然の道理(自ずから然る)に無私の態度(因り循(した)がう)が必要という。「鏡というものの面は無色透明で、その意味では無である。しかし鏡の面は無であるからこそ、無限の物の姿を映すことができる。心を虚しくして物を見るということは、新しい真理を受け入れるための準備である」。

 同様に、自分の専門には直接関係のない教養や知識を身につけることは、すぐに役に立つかといえば無用の教養かもしれない。しかし幅広く人格を養う事になり、やがては確実に専門学の役に立つ事にもなる。最近、「社会に向けて発言する裁判官」のグループが誕生した。裁判での判断の公正を保つために、裁判官の社会との接触を制限するという考えがある。それは誤りであって積極的に社会と交わることで法律にはない社会性を身につけることで公正な判断力を養う事ができるという主旨からのグループ誕生である。

 彼ら裁判官たちとは違って、専門の立場から他人の落ち度のあら探しをし、目くじらをたてそれを追究し責め立てる者がいる。広い視野に立ってみればとるに足らない事に気付くであろうに、それに気付かず真理であると思いこんでいる姿はあまりにも哀れである。まさに、論理学を刻み出す無教養な単なる機械にすぎない。無用の教養を無用として専門学にのみ汲々とした結果であろう。

 専門の学に汲々としているばかりのいわゆる学者は、中にうつろな空間のない器や壷、窓や入り口の無い部屋のように思える。

October  1999