麻酔と麻酔科学
 

 近代麻酔は手術に伴う痛みを抑えるために始まった。19世紀、多くの臨床家達は患者に痛みを与えることなく手術をしようと考えていた。そして、ついにHorace Wellsが自ら笑気を吸入し、抜歯を受けたことから、近代麻酔が始まったのである。 

 1844年米国の開業歯科医師Horace Wellsの笑気麻酔に始まり、その後の150年余のあいだに麻酔科学はめざましい発展を遂げた。

 もともと麻酔は手術のための補助手段であり、手術がなければ麻酔科医の出番はない。しかし、麻酔科学の発展は、手術以外の医療分野にも麻酔科医の活躍の場をもたらした。

 臨床医学を内科系と外科系とに大きく分類すると、歯科医学は外科の一分野であり、麻酔科学あるいは麻酔科は内科学の一分野である。麻酔科は、手術室での仕事が多いので外科系と考えている人がいるが、それは麻酔科学を理解していない証拠である。麻酔科学は臨床における最も基礎的分野である。痛みの基礎と臨床、麻酔管理法、呼吸循環の管理、全身管理の問題と多岐にわたっている。麻酔科医の仕事の中で手先の技術的な仕事は喉頭鏡の操作ぐらいで、他にはあまりない。生理学と薬理学、そして生化学の知識を基礎に患者の状態を判断評価し、適切な処置を決定することばかりである。生理学の中では特に呼吸と循環が大切で、これらの異常は待ったなしに患者の生命の危険に結びつく。この点、すなわち判断と処置に即決即断を欠かせない点、麻酔科学と内科学とで大きく相違するところである。

 この麻酔科医の仕事上の特徴から、麻酔科医の仕事の分野は手術室から離れて広がり、今ではICU( intensive care unit), CCU( coronary or critical care unit )が創設され麻酔科医によって運営さている。

日本麻酔学会 NEWSLETTERvol.4 no.4 1996 )の特集「麻酔学講座の名称を考える」総論の抜粋を紹介しよう。

 {現在、我が国に定着している「麻酔学」は1950年代、米国のAnesthesiology (英国ではAnaesthetics Anaesthesiology を厳密に区別している)にならって、なんら疑問もないままその直訳から始まった。「鎮(除)痛学」「疼痛制御学」「疼痛管理学」という訳もあったろう。また、当時の米国では手術部における全身管理が主であったことから、その直訳「麻酔学」でよかったのである。続いて、1960年代後半から欧州や米国に次々とICU, RCU が創設され、多くは麻酔科医によって運営されだした。

 日本そして欧州では、麻酔科学の守備範囲を広めるべく、蘇生学はもちろん、ICU, 救急、ペインクリニクにチャレンジし、今日の日本の麻酔学会の隆盛を勝ち取ることができた。しかし、我々が志向したほどには、マンパワーは増えていない。それには多くの要因がある。まず、

 (1)「麻酔学」という名称は、我々の日常診療を表していない(麻酔科医としての能力を充分に表すことができない)、そのため、

 (2)一般の人々は「麻酔科医」といってもなかなか解ってくれない、その結果充分な人が集まらず、

 (3)マンパワーの不足から過労を強いられている、(良循環につながらない)

 (4)開業がやりにくい(これには逆の見方もある)、

 (5)救急をやりたいが手術部の臨床で手いっぱいである、

 (6)手術部、救急部、ICU 以外の分野(例えば、ターミナルケア、在宅酸素療法、基礎麻酔学、ME、その他)をやりたいが手術部の診療に手いっぱいである、等が考えられよう。この中で名称「上記(1)(2)」の誤解に基づく要因が最も大きいのではないかと思われる。

 米国では医療費削減対策から専門医、特に麻酔科医に対する厳しい状況が到来している。これまであまり収入にこだわりすぎてICU,救急、ペインクリニクをなおざりにしてきた米国麻酔科医にもその責任があろう。そこで米国ではこれを大きな反省として、Department の名称変更が盛んである。その例を示すと、

1. Perioperative Medicine 2. Anesthesiology & Toxicology 3. Anesthesiology & Critical Care 4. Anesthesiology & Pain Management 5. Perioperative Medicine and Pain Management 6. Pain & Perioperative Medicine 等である。

 現ASA 会長である Dr. Ellison は、この中で56を麻酔学の守備範囲を良く表すものとして推奨している。邦訳すると、さしずめ周術期医学(管理学、内科学、疼痛管理学(内科学) )とでもなろうか。

 我が国においては、いち早く岡山大学を筆頭に「麻酔科・蘇生科学」に名称変更する大学が増え今日に至っている。しかし、なおその全内容を充分に表しえていないのが残念である。

 内科や外科に慣れ親しんできた我が国の一般への解りやすさからいうと「周術期内科」が解りやすいかもしれない。その他にも「周術期内科」「侵襲内科」「集中治療内科」「蘇生内科」「疼痛内科」等も考えられる。}(下地恒毅氏、新潟大学)

 

 歯科大学に麻酔学教室が設立された当初は口腔外科の手術を管理する仕事が主であり、また他の分野に手を広げる余裕もなかった。しかし現在歯科大学における麻酔科の役割を考えると、単に歯科患者の手術のための麻酔のみを担当していればよいというものではない。

 歯科大学生にとって麻酔科学を理解するために必要な基礎知識として不足しているものは、全身的患者診察法である。内科学の講義のなかで診断学の講義があるが、卒業する前にその殆どが脳裏から消えている。勿論内科臨床実習もなく、講義だけでは身につくものではない。歯科大学を卒業し歯科の麻酔を勉強しようと麻酔科学教室にやってきても、まず内科診断学の一から学ばなければならない。歯科大学における麻酔科の教育上の役割は、歯科医師に不足している全身的患者評価のための基礎知識を教育指導することにある。

 すでに述べたように麻酔科学は内科学の一分野である。単に手先の技術を学ぼうとして麻酔科に来ても、麻酔科学のなんたるかを理解することはできない。気管内挿管がいくら上手くできるようになっても、麻酔科学をマスターしたことにはならない。単なる Intubator あるいは Ventilator と呼ばれるだけである。全身麻酔の患者管理のための監視装置が種々開発されたことで麻酔の安全性は高まった。しかし、術中の心音と呼吸音の聴診そして患者を直接「診る」ことで如何に多くの情報が得られるか理解できず、小手先の技術や検査データの数値にこだわり患者の症状を「診」ない若い麻酔医たちも見受けられる。

 

 外来患者の歯科治療中に容態が急変し、主治医を慌てさせる事態に遭遇することがある。当然、主治医は事態を把握し適切な処置を施すべきであり、それは主治医の義務でもある。この場合の適切な処置は多くの場合麻酔学蘇生学、すなわち内科学の知識と判断が適応になる。ところが、歯科医師たちが学生時代に学んだ内科学の知識は、残念なことに忘却の彼方に失われ、もはやこの緊急事態に活用するすべはない。歯科治療は臨床医療のなかでも比較的侵襲が小さい。しかし、如何に小さな侵襲であろうとも大きなストレスをもたらすこともあり、歯科医師は保存科、補綴科であろうとも臨床家として備えておくべき基本的患者管理、つまり内科学を基礎とする知識を身に付けるよう常に努力するべきである。歯科医師にとって専門外であるからという理由で、患者の全身的疾患の急性増悪に際しその管理責任を放棄することは、歯科医師に許されるはずがない。

 歯科大学における麻酔科の役割の一つは、基礎的患者管理学について学生はもとより歯科医師を教育指導することである。麻酔科学は「生体管理医学」である。

June 1997