君子は豹変、小人は必ず飾る

 

 日頃気に掛かることはいろいろあるが、その一つに前言をひるがえしたり否定するために、議論がかみ合わないことがある。些細なことならば面倒な議論を避けそのままにしてしまうが、あとあとまで消化不良の気分が残る。

 自分の主張の誤りを指摘され、その誤りに気付いたならばそれを認めて話しを続けるのが道理である。指摘された誤りが納得できなければ、その根拠を提示し、双方が納得するまで議論するべきである。しかし、あまりにも基本的知識が欠如していれば議論にならない。

 ときどき論語を開いてみるが、古典の中には現在のわれわれにとっての教訓が多い。それらの一部をあらためて読んでみたい。

 

 1  君子豹変。小人革面。征凶、居貞吉。 「易経、革、上六」

君子は豹変す。小人は面を革む(あらたむ)。ゆけば凶、貞に居れば吉。

 

 君子が過ちを改めることは豹の模様のようにはっきりしているが、小人はただ外面だけを改めるにすぎない。改めずにいれば凶、貞すれば吉である。

 (転じて、態度、言動などが急に変わること、とくに悪い方に変わることに用いられる。これは本義ではない。)

 

 2 子夏日、小人之過也、必文。 (論語、子張篇七四三)

 子夏日く、小人の過ちは必ずかざる。

 人は誰しも過ちを犯すが、小人の場合は必ずそれを認めず取り繕う。君子は直ちに改める。

 学徳を積んだ人でも、時には過ちがないとはいえない。しかし、その誤ったことを知れば直ちに改めて再びしないようにすればよいのであるが、小人は自分が誤ったことを知りながら直ちに改めることをしないで、隠したりいいわけをして、その過ちを飾り立てるが、大いなるマチガイである。

 

 3  子貢日、君子之過也、如日月之食也。過也人皆見之。更也人皆仰之。

                   「論語 子張篇 七五七」

 子貢が曰く。君子の過ちは日月の食の如し。過てば人皆之を見る。更むれば人皆之を仰ぐ。

 

 君子でも思い違いのために、過がないとは云えない。ただ包み隠さないから、何人にも見える。丁度日食月食とて、日にも月にも光を失うことがあると同じことである。しかし、その欠けたる所が元の通りに復すれば、また仰ぎ見る如く。君子も過ちを悔い改むれば、元の通りに尊ばれると。子貢が譬を引いて言うた。

 

 4 子日、君子不重則不威。学則不固。主忠信。無友不如己者。過則勿憚改。

  (学而篇八)

 子日く、君子重からざれば威あらず。学べば固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とするなかれ。過ちてはすなわち改むるに憚ることなかれ。

 君子は常に軽薄であってはならない。さもないと人に心服されない。学問に励んで固陋(視野がせまく、融通がきかない)を退け、なによりも自他に対する誠実・忠(誠意)と信(信義)を大切にする。君子は友を選ぶときは必ず自分より優れた人物をえらび自分より徳の劣る者とは友つきあいをしない。そして過ちを犯したと気付いたら即座に改める。この心がけを忘れないことだ。