日本は神の国か

 

 日本は神の国か。 否、神々の国である。

 森総理の「神の国」発言が国会の論争を引き起こし、新聞紙上をにぎわしている。

 そもそもわが国では古来から伝わる宗教として神道があったが、聖徳太子の仏教導入によって天皇家も仏教の帰依者になり、八百万の神はそのまま信仰され現在まで続いている。

 

 5月15日の神道政治連盟国会議員懇談会での森総理発言の中で神に関わる部分を抜粋すると

「・・・まさに天皇を中心にしている神の国であるぞということを、・・・神様を大事にしているからちゃんと当選させてもらえるのだなあと、・・・やはり鎮守の森という宮様を中心に地域社会を構成して来たように思う・・・人の命というものはお父さまお母さまから頂いたもの、しかし、もっと端的にいえば神様から頂いたものだ。・・まず自分の命を大切に・・人様の命もあやめてはならない。その基本のことがなぜ子ども達が理解していないのか。いや、子供たちに教えていない親や学校の先生や社会の方が悪い・・・日曜には教会に行ったり神棚に参ったり、お仏壇にお参りしたり・・・家庭の基本のこと、そして地域社会のこと、やはり神社を中心にして地域社会は栄えていくんだよと・・・総裁に指名してくださったことを天命だと思った。天命ということは、神様から頂いた、私はそう思っている。・・・神様に恥ずかしいことをしてはいかん。もっと分かりやすく言えばお天道様が見ている。神様が見ているということを、・・・」

 

 この発言内容をみると、典型的日本人の宗教観に基づく考えといえる。先祖崇拝、人間を超越した絶対者として考えられてきた「天」を含め平均的日本人のもつ神の概念を基にした発言と理解する。つまり多くの日本人が考える神は一神教でいう「 God、神 」とは違うのである。

 日本人の宗教観について既にこのコラムで述べてあるが(宗教と信仰)、もう一度まとめてみたい。

 

 宗教を精神的根源とする民族は多いが、日本人の精神的根源として何があるのであろうか。宗教に排他性は付き物であるが、排他性にこだわらない「いわゆる日本教信者」が日本人には多い。このことから日本人は無宗教者であると言われているが、日常生活の中に受け継がれる様々の習慣も日本教的思考に基づくものといってよいものがある。キリスト教徒は食事の前にGod(神)への感謝の言葉を述べる。日本人は「天」に対する感謝の気持ちをこめて「頂きます」と挨拶してから食事を始める。一神教の「神」と「天」とを同一とは考えていないが、社会生活の規範あるいは守るべき道徳は、古来厳然と受け継がれてきた。天の声は天地自然の理であり、「天声」は耳で聞くものではなく、心で聴くものである。単なる個人の意見に過ぎないものを「天声人語」などと名付けるのは、おこがましい限りである。

 天について考えてみよう。天帝とは天を支配する神であり、造物主である。中国古代の人たちは天を尊敬して天の支配者を帝といい、万物は天帝が創造したものと考えた。仏教の帝釈天も天帝のことである。また、天道とは、自然の道理、天帝、天を意味し、「天」と同じ意である。

 日本の神道は自然宗教あるいは原始宗教の範疇に含まれるものであろう。したがって神道での神は、契約を基礎とし絶対神を信仰する一神教の宗教religionでの「神・God」とはその性格は全く異なるものである。我が国の神社の祭神、祀られている神々は日本民族の歴史上何らかの功績があったと考えられる「ご先祖様たち」である。つまり共同体としての村、町そして国(近代の国家のことではない)にとって崇拝するべき先祖を祀る行為、祭祀が「神道」である。そのため日本の国境を超えて外国にまで布教されることはない。明治以降の近代においてもその基本は変わらず、「神」として新しく神社に祀られた日本人は数多い。それは宗教というより信仰そして先祖崇拝というべきものであろう。仏教における「仏」も元は人間であったが解脱した仏であるのに対し、神道での崇拝の対象は多数のご先祖、つまり神道では人間を「神」として祀るのである。神道の神は「God」や「仏」とは区別するべきである。

 創造神を持つ religion (契約)と、それを考えず人間自らの修行によって成仏する仏教、そして先祖崇拝を基本とする日本神道を「宗教」という同じ言葉で考え、その信仰の対象を同じ「神」とよぶのでは、誤解が増すばかりである。

 この様に考えると、神道における「神」を一神教や仏教での「God」や「仏」と同一視することはできない。言い換えれば「神」「God」「仏」はそれぞれ全く異なる存在であり、神道を含めてすべての「いわゆる宗教」を「宗教」という言葉で一緒くたに論ずることはできないのである。政教分離は社会の常識となっているが、日本の神道を他の宗教と同様に考えることができるものなのだろうか、大いなる疑問が残る。

 日本人は自己を無宗教と考える者が多い。実際には神社に参詣したり、死者の葬儀を仏式で行ったりしているのであるが、神信仰(神道)についても、また仏教についてもほとんど知識はない。したがって神道の信者とも仏教徒とも公言する自信はないところから、キリスト教徒などと比べて、自己は無宗教だと考えてしまうのである。

 ところで一般の日本人は本当に無宗教なのであろうか。例えば食事の前に「頂きます」と唱える習慣ひとつとってみても、どの神か仏か、あるいは「お天道様」か、明確ではないけれども、自己の生活を成り立たせてくれている「ある超越的な存在」に対する、畏敬と感謝の念の表現であることに間違いはあるまい。森総理の話の「・・・お天道様・・」は、日本教の「神様」のことである。

 十五世紀のころから、江戸時代を通じ昭和のはじめごろまでの日本の大部分の地域では、村や町にある神社はその地域に住む人々のいわば結合の中心をなすものとして、日常生活に密着していた。その生活上の実感はいまでも大多数の日本人の心の中に生き続けている。

 そのようにみれば、私たちの生活はむしろ宗教性に充ちているのである。家ごとに神棚と仏壇があり、村や町には「お宮」と「お寺」があるということは、少し前までの日本では普通のことであった。

 「それなのに、どうして日本人は自己を無宗教と考えてしまうのか。その点を問題としたある研究者は、宗教には創唱宗教と自然宗教とがあり、日本人の宗教は後者であるため、無宗教とみえるのである、と説明している(阿満利麿著・日本人はなぜ無宗教なのか)。しかし、自然宗教というと、どの民族にもある原始的な宗教と混同される恐れがあるので、適切な表現ではないように思う。日本人の宗教を歴史的に考察しようとする私自身の立場からすると、共同体の宗教、あるいは共同体的な性格をもつ社会を基盤とした宗教、と表現した方が妥当であるかのように思われる。ここでいう共同体とは、近代日本の地域の集落につながる村や町を指している(川村学園女子大学教授・尾藤正英、サンケイ新聞 8、21、1998)。」

 生まれてまもなくお宮参り、毎年のお祭りには神社に参拝、元旦には神社、お寺へ初詣、結婚式はキリスト教会あるいは神社で、死ぬときには仏教式に。みな日本人である。

 

 わが国は神の国ではなく神々の国、日本教の国である。    平成12年6月