麻酔が痛い

 

 病室で「あの麻酔はものすごく痛い」「覚悟していったほうがよい」と同室の患者たちは手術を予定している患者を脅かす。

 看護婦たちは一様に「がんばってね」と患者を励まして手術室へ送り込む。

 手術中に「がんばる」のは手術室のスタッフであって、患者はリラックスして気持ちを落ち着かせるべきであり、ましてや「がんばる」必要はさらさらない。私はいつも「頑張らずにリラックスして下さい」と看護婦の言葉を訂正する。そうすると患者はいくらかリラックスしたようにみえる。

 しかし手術室へ入った患者は緊張のあまりブルブル震えている者さえいる。心拍数は増加し血圧も上昇、麻酔の導入にも支障をきたしかねない。「何が心配か」と患者に尋ねると「痛いのではないか」と答える患者が多い。

 

 麻酔は手術に伴う痛みを除くために始まった。麻酔科学の発達によって近代外科学は支えられている。しかしこの麻酔行為自体が痛みを引き起こすのは麻酔の歴史上にも記録されている。

 1898年8月 August Bier は0.5%のコカイン溶液3mlを患者の脊髄腔に注入し、脊椎麻酔の可能性を立証した。その際多量の脊髄液が流れ出た。その2時間後患者は激しい頭痛と吐き気の発作におそわれ、翌日まで続いた。この原因を探るためにBierは自らの脊髄腔にコカイン溶液を注入したが、術後同様の頭痛におそわれた。今では硬膜外麻酔が普及しているが、硬麻では術後の頭痛はみられない。

 さて麻酔臨床の現状をみると前投薬の筋注、技術不足のため数回におよぶ静脈穿刺、そして腰麻硬麻のための浸潤麻酔がいかに患者を苦しめているか、私はいつも気になる。

 とくに前投薬の筋注は翌日になっても痛む。そして硬麻に際しての乱暴な浸潤麻酔である。できるだけ患者に苦痛を与えないよう愛護的に操作するべきであるのに、その点の配慮があまりにも欠けている。

 気管内挿管についてみても、チューブによる術後の痛みが問題になる。とくに経鼻挿管を採用すれば鼻粘膜の損傷から、患者の訴える術後の不快はかなりのものである。

 歯科麻酔のスペシャリストならば基本として経鼻挿管を行うべきだという者がいる。鼻孔からチューブを挿入するだけのことで経鼻挿管のスペシャリストなどというのは世迷い言としかいえず、理解できない。スペシャリストである麻酔医たちが経鼻挿管を極力避けるのはなぜか、その理由を理解していないからとんでもないことを口にする。気管内挿管の基本は経口挿管である。

 麻酔医は単に患者に麻酔を施すというのではなく、麻酔操作に伴うあらゆる痛みを極力抑えることにも十分な配慮と努力を怠ってはならない。

April  AD 2000