地球法廷・生命操作

 

 平成106月「生命操作・いのちへの挑戦」と題したNHK市民討論の企画を知る機会を得た。その討論の主題として

討論A:本人がのぞめば生命を操作してもよいのだろうか

討論B:何を病気として、どこまで治療すべきなのだろうか

討論C:人のからだをものとして扱ってよいのだろうか

討論D:人が生きているとは、いつからいつまでをさすのだろうか

という四つのテーマが提示され、それらに対する市民の意見を募集していた。

 これを見て、企画者の意図がどこにあるのか、またなぜこの様な企画を思いついたのか、そしてこれらのテーマを論じることの意義がどこにあるのか、私は理解できなかった。生命操作とは医療行為そのものであり、太古の昔から行ってきた人類の行為である。今さら生命を操作してもよいのだろうか、というのは医療の本質を理解できていない、あるいは知っていながら無視した虚構にしか思えない。我々にできること、そして論じなければならないことは生命操作、すなわち医療行為の社会的に許される限界を知ることであろう。

 この法廷の設問は無節操な自己欲望の主張を羅列したものにしか思えず、しばし考えた結果私の疑問を思いつくままに連ねてみたのが以下の文である。

 

 討論A:本人がのぞめば生命を操作してもよいのだろうか

 

 *医療行為は全て生命操作、そして際限なき欲求

 生命現象の神秘的不思議さ、しかも人間業では不可能な精巧な生命の営み、新しい生命の誕生から死にいたるまで自然のままに生きているのは人間以外の生物達である。

 人間社会では自然淘汰の原理に逆らい、医療によって病める生命を助けている。人間が手足の骨を折っても死ぬことはない。しかし野生の動物が脚を折れば仲間と共に移動できず置き去りにされ、餌を採ることもできずにまもなく死んでしまう。他の動物の餌にさえなってしまう。仲間の悲劇には野生の動物達も悲しむ。

 医学の発達は人工臓器を生み、さらには人間の臓器移植までもが行われるようになった。もっとも早くから行われている臓器移植は輸血である。輸血という治療手段のなかった時代には失われた命も、今では輸血によって多くの人たちが命を存えている。

 身近な人工臓器といえば義歯であり、義肢である。義歯や義肢を自分の体の一部のように考え活用している人もいるだろうが、多くの人は「もの」すなわち人工物としかみていないだろう。しかし輸血血液は人工的「もの」ではなく正真正銘、立派な「臓器」である。臓器を「もの」と考え、血液が「臓器」であれば心臓も「臓器」であるから輸血することと同じ感覚で心臓移植が許されるだろうか。輸血のための採血で供血者の生命が危険に晒されることはほとんどないが、心臓の提供者は確実に命を失う。

 輸血によって多くの人命が救われるようになったが、輸血をはじめ医療は自然の摂理に逆らう延命という生命操作であることに気付いている人はどれ程いるだろうか。「生命を操作する」ことには「延命」と、人為的に命を縮める「縮命」の両面がある。治る見込みの全くない脳死や末期癌患者の終末医療で医療を停止することで死を迎えるのは、あえて言えば消極的安楽死である。言い換えれば、それまで自然の摂理に背いて施してきた延命医療を止め、自然のままに死を迎えたに過ぎない。「縮命」は積極的に命を絶つことであり、積極的安楽死を安易に実行すると殺人の疑いが濃厚になる。

 医学の発達は人を死から救うことだけでなく人工授精という手段による新しい生命誕生の操作や、遺伝子操作による治療の領域にまでも際限なく手を広げてしまった。そして生命を操作する、つまり病める命を助ける救命医療を除く全ての医療行為の中で常にその倫理が問われるものは脳死患者からの臓器提供、安楽死、人工授精、遺伝子操作などが挙げられる。

 「本人がのぞめば生命を操作してもよい」とはなにを想定して提示したテーマなのだろうか。紀元前の大昔から人間は医療という生命操作をし続けてきた。今さらその是非を問うのは論外である。しかし、医療行為の全てが自然の摂理に逆らい生命を操作する行為であるから、その生命操作の許される限界はどこにあるかについてのみこの問に対する答えが可能である。その許される限界は誰が認めそして誰が許すのか。それはわれわれ人間の能力を超えた問題であって、できることは法律による規制が限界である。

 日常の医療現場では本人が望むからこそ医療による生命操作が行われているのである。日本人の平均寿命が世界一になったのも、高齢化社会、少子化社会の現状も自然淘汰すなわち自然の摂理に背いた結果なのである。しかし中には医療を望まずに拒否する者もいる。その代表例は信仰上の理由からの輸血拒否である。本人が施療を望む、あるいは拒否するならば人間としての価値観、倫理観にこだわることなく、なにをしても許されるか。私はそうは思わない。自殺を希望する人を幇助する、安楽死を望む人を死に追いやる、医療を拒否する人に医療を施さない、そして人工授精、分娩前の胎児診断と際限なく広がる当事者たちの欲求、第三者にとってその是非の結論は容易に見いだせない。人工調節による受胎が行われ、さらに分娩前の胎児診断までも可能になった。出生前胎児診断は胎児の性別を好みによって選ぶ、障害のある胎児の出産を止める、つまり妊娠の中絶を前提にした生命操作のための診断という新たな問題が起こってきた。胎児の生命をどのように考えるか、この問題も生命倫理の基本を逸脱した生命操作と言わざるをえない。

 「生命を操作してもよいか、否か」については縮命操作が最も大きな議論を呼ぶ。この問題は宗教倫理を基盤とすることによってのみ答が可能である。ここでいう「宗教」とはキリスト教における神と人との契約の上に成り立つ信仰・religionではなく、またreligion とは異なる仏教などの既存の宗教教団でもない。それは広い意味での基礎教養としての宗教である。現在多くの日本人の宗教心は薄れ、宗教とは何かも理解できない者が多い。「宗教」とは既存の信仰・宗教にも通ずることではあるが、それらに拘らない幅広い意味での倫理観、人間にとっての基本的教え、教養の基、宗なる教えであると考えて頂きたいが、ここで「宗教」の定義についてこれ以上論議するのは控える。

 心の病や肉体の病に冒された人の極限状態は、他の健康な人にとっては理解可能な問題ではない。肉体の病は必ず心の病を伴う。しかも人が病に冒される以前からの教養、つまり病者自身の倫理観が心の病に大きく影響する。医療の中で縮命操作の典型が安楽死である。その安楽死を最終選択せざるを得なかった病者の心の中に入ることのできない健康な第三者には安楽死の是非を論ずる権利も資格もない。ただ法律上の判断のみが、その時代における社会通念に従って第三者が解決できる、そしてするべき問題である。

 紀元前4世紀、医学の父祖と仰がれるヒポクラテスの時代に医学を修めた者は医神に誓詞を述べて医業につく習わしがあった(Hippocratic Oath)。それは医師たるものは徳義を重んじて病者のために、誠をもってその安寧をはかることを強調している。その中には「病者の治療に誠をもって尽くす」「安楽死を否定する」「堕胎を否定する」「医師としての清廉性を守る」の言葉がある。神の前に誓詞を述べるのは、人間に許される行為の限界を知り神の領域には手を付けないことを誓うためである。人類の歴史を通じて古も現在も医療の基本に違いはない。

 この誓詞は現在でも米国有数の医科大学の卒業式における誓いの言葉に採用されている。その究極の精神は病者の病を治すことにあるのは言うまでもなかろう。

 

 討論B:何を病気として、どこまで治療すべきなのだろうか

 

*終末医療と安楽死

 「何を病気とするか」とは、「病める人間」がすなわち「病気」であるとしなければならない。東洋医学でいう「気の病」すなわち「病気」とも異なるが東洋医学での理論と同様に、肉体と心を切り離して考えることはできない。体の一部である臓器の異常のみを病気とする人たちもいるが、真の病気を論じていることにならない。病める臓器をもつからだ全体、そして心を含めた人間を病気として治療を施すことが基本である。病人は病める人であって、いわゆる病気は病人そのものではない。医者は病気を治すのではなく病人を治療するのだ、とはよく言われていることである。病人ではなく病気を治すだけならば、臓器提供者を人ではなく「もの」とみることは容易になり、提供された臓器も「もの」として扱えば心臓移植の実施も簡単である。

 「病気」を観点を変えて考えると、「病とは、心あるいは肉体の非健康であり、健康な生活へ障害をもたらし、そして生命への危険をもたらす状態」であるといえる。したがってこの定義に従えば不妊症などは必ずしも病気とは言えないが、医学の発達が人工受精による受胎への欲望までもその対象としてしまった。

 「どこまで治療すべきか」と考えることがどうして必要になったのだろうか。医療行為は経済的行為でもあるため、個人、社会の経済力が医療の質も量も左右し、如何に望もうとも医療を断念せざるを得ない状況も起こる。社会保障制度が充実しているといっても、それには限度がある。また逆に患者が望まなければ医療行為は成立しえない。輸血を拒否する人に輸血を強制的に実行することはできない。もし行えば傷害罪が成立する。従って患者とその家族が望む限り治療は続けるべきであり、望まなければ医療を止めざるを得ない。しかし、最近話題になった体外受精での精子、卵子の規制についての意見も医学的論拠のみでは結論は得られない。すべて人間としての基本倫理に立って考えるべきである。現実に他人の子であっても養子縁組によって親子の関係は立派に成立している。

 「どこまで治療すべきか」の最も本質的問題は討論Aと共通の事柄であり、これは延命治療を放棄するべき「時」を考えての問であろう。その「時」の治療法として積極的あるいは消極的安楽死を選択するか、あるいは何も施さない、などが考えられる。それらの選択は、多くの場合医療者の判断に任されているのが現状である。延命治療以外の医療はこのテーマの対象になりえない。

 治癒の見込みのなくなった末期癌患者、脳死の患者、これらの患者の治療をどこまでするかは、患者とその家族の倫理観、そして医療者の倫理観が全てを決めるだろう。終末医療については第三者がとやかく言うべきものではなく、また他人がその是非を患者に強制するべきことでもない。第三者にできることは、臓器移植を含めて病者のための最善の医療行為が実施できるよう医療環境を整えること、そしてそれが第三者の務めであり許される範囲である。

 脳死患者の人工呼吸器を停止して延命治療を終わらせても、それは自然の摂理に従い死を迎えたのであって生命を操作したものではない。生命を操作しているというのは、人工呼吸器を使用することなのである。呼吸の停止があっても必ずしも心停止は起こらないが、心臓の重大な障害のために心停止が起こると心拍の再開は望めず救命治療は不可能となり、人工呼吸器使用の有無に関わらず人は必ず死亡する。したがって呼吸停止が起こっても心臓に障害を伴わない場合は、人工呼吸器によって心臓の拍動を維持できる。しかし心臓拍動が維持できても人間の本質である中枢神経機能が完全に廃絶、つまり脳の死があれば人工呼吸器装着の適応はなく、その使用は自然の摂理に背いた生命操作に他ならない。そして人工呼吸器を停止する「時」を決断するのは患者、患者の家族そして医療者の倫理観に基づく判断による。それが全てである。人工呼吸器の停止が死に直結するといっても自然の摂理に従う死であって消極的安楽死というものでもない。生命操作である医療に従事する医療者たる者は、確固たる倫理観をもつことが肝要であり必須である。

 安楽死の中で大きな問題になることは、重い病に苦しむ患者が苦しみから逃避するために望む安楽死である。苦しみは極度に強いが生命への直接の危険はなく、しかも完治する望みもなく毎日の闘病生活は唯ただ苦しみの連続だけという場合である。苦しみを除く治療法のなかった昔には、患者は長い間ただ苦しみ抜いて死を迎えた。「死」だけが苦しみを取り除いてくれる唯一の治療方法なのである。現在一部の病の治療法は開発されているが今でも最も難しい問題であり、結論は容易に見いだせない。「死」以外に救いのない極限の苦しみを体験として理解できない第三者が安楽死、すなわち肉体の死の是非を決めることができるはずがない。第三者にできることは、心の救いを祈るのみである。

 

 討論C:人のからだをものとして扱ってよいのだろうか

 

 *人とヒト

 人間あるいは人は「ヒト」ではない。人を「もの」としてみたとき「ヒト」という。ヒトのからだは「もの」である。人あるいは人間のからだは「もの」ではない。人間のからだは肉体と心の両者によって構成されているものである。人を単に「もの」と考える時「ヒトのからだ」というのである。人を自然科学の事象の中の生物として扱うとき「ヒト」といい、人と人との交わりの営みの中では「ヒト」ではなく人間といい、人文科学・社会科学の立場では人間としての価値が人間の営みの重要な基準となる。

 では死亡によって生命活動が失われた遺体は「もの」といってよいのだろうか。遺体を「もの」とし廃棄物と同じく扱ってもよいと主張しているのか。そんなことはないだろう。生き物が死ねば死体、屍体あるいは死骸というが、人間のからだは死によって心が失われると遺体という。人間の死後そのからだ肉体は、あの世へ去った心が遺した遺体であって死体ではない。ただし人間以外の動物達には心がないと考え死骸というのであるならば、それは人間の独善であり動物達の心を理解できないだけのことである。

 遺体をどのように見るかは時代、文明、社会背景などが大きく影響し、単一の答は出てこない。古代の人たちが遺体をミイラとして保存したのはなぜか。古代人の心と現代人の心は同じか否か。この事を考えれば生命を失った肉体を単なる「もの」とみなすことができないのは、当然であろう。

 人のからだをものとして扱いたい理由は、臓器移植との絡み以外に考えられない。臓器移植の要望がなければ、人のからだをものとして扱うなどという考えが出てくる理由はない。人のからだを「もの」とみるならば自分のからだの所有権を論じたり、臓器を売買する権利を主張したりする者もでてくるだろう。しかし財産の所有権とは異質の問題であって同列に論ずることは許されない。かつて我が国においても血液の売買が行われていた。採血による生命への危険が少ないことから自分の血液を売り、その代金で酒を飲む者が大勢いた。しかし現在その売買が禁止されている。

 臓器移植の最大の問題点は、他人の臓器をその人の生命を犠牲にして売買することである。それならば自分の臓器ならば売買してもよいのか。否、輸血血液を含めて臓器は売買の対象物にはなり得ず、その提供の是非は提供者の倫理観のみが決めることである。売買物とすることは生命倫理の基本に反する行為である。したがって臓器提供者のからだ、全ての臓器は「もの」ではなく、ましてや臓器移植のために「もの」であるとする必要もさらさらない。もちろん、臓器提供後の遺体も「もの」ではない。

 

 討論D:人が生きているとは、いつからいつまでをさすのだろうか

 

*生と死、そして臓器移植

 実験動物なみに単なる生き物として人を扱うとき「ヒト」といい、「ヒトが生きている」という。生物学の立場では生命活動が停止したとき、その生物あるいは「ヒト」は「生きていない」と考える。動物では呼吸の停止に心臓の不可逆的停止があれば生命活動が停止した、すなわち死と認定する。

 しかし人間社会で「人が生きている」というのは生命現象の存在している間だけであるともいえるが、遺体となっても生きていると考える人たちにとっては、肉体が消滅した後も人は永遠に生き続ける。脳死を人の死とするか否かの議論があるが、脳死は脳の死であって人の死ではない。生と死を意識するとき、それは物質的観念ではなく人の心の問題である。仏教では往生、キリスト教では天国へ、人間の死後はそれぞれ永遠の命が約束されている。どの民族にもある先祖崇拝の祭祀がその現れである。それが人に Homo sapienswise man)と名付けた所以の一つであり、人それぞれの倫理観が基礎を成す観念でもある。

 なにゆえに生と死の境界を定義しなければならないのか。医療とくに臓器移植を前提にしたとしても、その必要性はどこにも認められない。臓器提供の是非を決める根拠は、臓器提供者の倫理観のみが全てである。したがって臓器移植でしか助かる道がない病者、レシピエント(recipient)が臓器移植を受ける権利を保有していると主張することは基本的にあり得ない。ただ提供者の崇高な倫理観に基づく善意に対し謙虚に感謝すること、彼らにできることはそれだけである。医療者は病者の治療に誠をもって尽くすのみであり、ヒポクラテスの誓詞の精神を常に堅持しなければならない。生と死の境界を定義するのは、法律上でのみ必要な問題である。

 国会で行われた脳死の審議は臓器移植のためであり、人の死を定義するためのものではなかった。法案の目的は、心肺など臓器を提供しようとする善意の提供者が存在し、その一方に臓器移植でしか助かる道のないレシピエントがいる現状を法律で支えようというものである。一律に人の死の概念を変えるものでも、強制的に臓器を摘出使用しようというものでもない。

 日本で長年続けられてきた臓器移植に関する発言は、臓器移植を切望する患者の希望も悲しみも無視したものもあり、とくに移植に反対する評論家たちの考えは一体どこからでてきたものだろうか。現実を無視したあまりにも自己中心的意見である。これは国際社会の倫理観とは異質である。長年の間日本人からの臓器提供と臓器移植には頑固に反対したうえ殺人罪で告発し、さらに臓器移植法案にも水をさしておきながら、同時に外国人の臓器を日本人に移植することには積極的に賛成し、渡航費から医療費まで莫大な支援金を募集してきた、外国人からの臓器移植を支持する者たちにこの問題について討論する資格があるか、疑問である。外国人の臓器が日本人に移植されることに、どうして無関心でいられるのか。国外に出れば何をしてもよいのか。とくに臓器移植法案に反対してきた人達は、日本人が国外で臓器移植をうけることにも断固として積極的に反対意見を表明するべきであろう。彼らが沈黙しているのは、あまりにも矛盾した言動である。それもこれも、日本人の日常生活の基本となるべき倫理観の欠如、宗教心の欠如そして無責任な権利意識が大きな要因ではなかろうか。このような一部、というより多数の日本人の偏った論理構造を考えるとき臓器移植法が成立し、さらに臓器提供施設を大幅に拡大指定したにも関わらず、日本では脳死患者からの臓器移植が諸外国のように定着することは当分の間望めないと私は考えるが、諸氏の意見を伺いたいものである。 おわり August 1998