体内閉鎖腔と笑気吸入麻酔

           (日本歯科麻酔学会誌 27、5、ミニレクチャーより) 

 笑気の分配係数は窒素よりも大きい。そのため笑気吸入によって体内閉鎖腔が膨脹するので腸閉塞では笑気を使うな、というのが私が麻酔科学を初めて教えられた時からの常識となっていた。しかし、よく考えてみるとどうもおかしい?合点がゆかない。そこで多くの成書を検索してみたが、どの参考書にも同じ記載があり、笑気の分配係数がその理由として説明してある。そして私の結論として以下の説明に達した。歯科麻酔学会誌を読まれない人にもと考えここに掲載することにした。

 

 「体内閉鎖腔の内圧上昇は、笑気の吸入濃度が高いので起こる。その上昇の程度は血中の笑気分圧で決まる。つまり腸閉塞、閉鎖性気胸や気脳写での内圧上昇は笑気を50〜80%の高濃度で吸入しているとき著明になる。これはエチレンやキセノンの吸入麻酔でも同様である。犬の実験では68%〜78%笑気吸入により300mlの気胸気が10分で2倍、45分で3倍、2時間で4倍以上になり、高濃度の笑気吸入が原因であることが立証された1)。」

 

1 気相から液相、液相から気相へのガス溶解と拡散

 空間における気体の移動は分圧較差による拡散である。

この現象は液相と気相が接するところ、あるいは膜を隔てた気相と気相との間では常にみられる。つまり、液相と気相とが接しているとき気相から液相あるいは液相から気相への気体の溶解拡散が、液相と気相との分圧が平衡に達するまで続く。体内では閉鎖腔に限らず気相が存在していればこの現象が起こる。笑気吸入麻酔維持中に気管内チューブのカフの膨張が起こるが、これも全く同じ現象である。

 2 成書の記載

 成書を検索すると次の様な記載が目につく。「笑気は窒素と比較すると分配係数は約34倍ある。・・大量の笑気が空間に移行し内圧を上昇・・」2)「・・34培と大きいので・・窒素が笑気と交換される・・」3)「笑気は溶解度が大変大きいことから・・容積が増大し・・」3)「笑気は窒素に比較して血液/ガス溶解係数が高いので、体内閉鎖腔へ流入し・・」4、5)「・・N2よりN2Oの血液/ガス溶解度が高いために起こる・・」6)「笑気の拡散速度が窒素の25倍大である・・」7)などと記載されているが、笑気の溶解度は比較的小さいのである。また「窒素と笑気の溶解度の差(1:32)によって閉鎖腔内の窒素が笑気によって置き換えられる結果」8)と説明している成書もある。しかし窒素と笑気が置き換えられることはない。また「硝子体内ガス注入を受けた患者では注入後空気で5日、SF6(Sulfa hexafluoride)で10日間は笑気吸入麻酔を避けなければならない」と記載し、その理由として血液ガス分配係数を挙げている成書もある9)

 笑気の血液ガス分配係数が窒素のそれよりも大きいことで閉鎖腔内圧が上昇するならば、溶解度が笑気よりもさらに大きいジエチルエーテル(窒素の900倍)、ハロタン(180倍)、イソフルラン(100倍)、セボフルラン(48倍)、二酸化炭素(37倍)酸素(1.7倍)はどうして閉鎖腔内圧を上昇させないのか。

 Eger1)は @ prudent to consider bowel obstruction as a relative contraindication to N2O anesthesia at inspired concentrations exceeding 50%. A 70〜80 % N2O is contraindication.B when oxygen and halothane were respired little change in volume occured.と明記し、C ethylene or xenon should produce the above phenomena.と分配係数よりも高濃度吸入が大きい要因であるとしている。笑気による内圧上昇が大きいのは、笑気の吸入濃度が50〜80%、すなわち血中分圧が極端に高いからであって分配係数の大小の影響は小さい3)

 「笑気の拡散速度が25倍も速い」と Grahamの法則で説明しているものがあるが10)、これは「等温等圧の気体が細孔を通って圧力の低い側へ流出するときの拡散速度はその密度(分子量)の平方根に逆比例する」11)という気体分子運動の法則であり、拡散速度は分子量の大きいものほど遅い。しかも体内閉鎖腔ガスが血中へ移行するには閉鎖腔壁組織、組織液、毛細血管壁を通過し血漿中へ溶解、そして拡散という性質の異なる組織を通らなければならない。この拡散速度はGrahamの法則ではなくBohr,Krogh12)の式で説明される。また「閉鎖腔内の気体は、拡散の速い酸素は抜けてしまって窒素が主になっている」10)との記載がある。分配係数が小さく拡散定数が窒素(2.02)12)よりも小さい酸素(1.98)が抜けてしまったのは液相における物理的拡散が速いためではなく、赤血球によって化学的に運び去られたのである13)

 3 胸腔へのガス拡散

 気胸が存在していると笑気は気胸気中に拡散する。「・・・笑気吸入により気胸内の窒素が笑気と交換されると気胸は増大し緊張性気胸となる」との説明がある。ところが「・・・胸腔内にガスが侵入しないメカニズムは静脈血ガス分圧(706mmHg)が動脈血ガス分圧(760mmHg 大気圧に等しい)よりも54mmHg (73cmH2O)低く・・・胸腔内圧が大気圧より73cmH2O以下にならなければ胸腔内にガスは生じない。閉鎖性気胸では・・・73 ー 2 = 71 cmH2Oの圧差で静脈血中へ拡散されガスが消失するまで吸収される」3)と矛盾した説明が併記されている。気胸気への笑気拡散現象をどのように理解すればよいのだろうか。窒素と笑気は独自に拡散するのであって、交換されることはない。気胸気と毛細血管血中の各ガスの分圧較差によって単独に吸収拡散が起こるのである。分圧較差がなければガスの移動は起こらない。つまり胸膜腔内気相(正常では存在しない)と血中との間に存在するガスの分圧較差がガスの吸収拡散に関与する因子であり大気圧は関与しない。しかも静脈血中への拡散ではなく、毛細血管血中へである。さらに言えば血液からの物質の出入りは毛細血管が唯一の場所であり、静脈ではガス交換は行われない。

 4 体液沸騰現象

 「胸腔内圧が大気圧よりも73cmH2O(54mmHg)以下にならなければ胸腔内にガスは生じない(前出)」との説明がある。毛細血管血とそれに接する胸水などの組織液との間では、血液ガス(O2,CO2,N2)が分圧較差に従って液相の中を容易に拡散する。しかし胸膜腔内に気相が存在していないのであるから胸腔内圧が73cmH2O以下になっても気体は生じない。液相つまり生理的胸水あるいは血管内の血液の中にガス・気体が生ずるのは、水蒸気圧や血中溶存ガスの分圧以下に大気圧が低下したとき(相対的、絶対的に)である。これが体液沸騰現象である12)。しかし日常環境では起こりえないが、潜函病はこの理論で説明される。

 5 体内閉鎖腔へのガス拡散

 閉鎖腔内ガスの多くは窒素、眼内ガス注入ではSF6、

腸管では窒素とメタンそして水蒸気その他である。血中から閉鎖腔へのガス拡散は、閉鎖腔内ガス組成と血中ガス組成、およびそれぞれの分圧較差と溶解度によって拡散量が決まり、液相(血液)と気相(閉鎖腔)との分圧が平衡に達するまで拡散する。

 気相から液相へのガス溶解は分配係数に比例し大きいものほど多く、血中濃度(vol%)は高くなる。逆に液相から気相への拡散は、血中溶存ガスの分配係数が大きいほど血液への溶解量(vol%)が多いので閉鎖腔内へ拡散していく量が多い。血液ガス分配係数の小さいガスでは閉鎖腔に拡散しやすいが血液への新たなガス供給がなければ、同じ血中分圧では閉鎖腔への拡散量が少ない。つまり分配係数が小さく(血中濃度が低い)閉鎖腔への拡散は速いが拡散量が少ないものはSF6(0.004)、窒素(0.013)、酸素(0.023)、笑気(0.47)、二酸化炭素(0.48)12)そしてその他の吸入麻酔薬の順である。ハロタン、イソフルラン吸入では笑気吸入よりも閉鎖腔への拡散量が多い。

  維持麻酔では血中麻酔ガス分圧が一定に保たれているから閉鎖腔内ガスの分配係数との差が大きいほど、単位時間あたりの血液と閉鎖腔との間でのガス出入りの差が大きく、その上さらに血中ガス分圧が高ければ、つまり吸入濃度が高ければ閉鎖腔内圧が上昇する。血中ガス分圧が低ければ分配係数の大小に関わらず閉鎖腔は萎む。閉鎖腔内ガスの血中移行を仮に0とすれば、血中溶存ガスの閉鎖腔への最大拡散量 Vは分配係数に関係なく、

V = 閉鎖腔容積×吸入濃度(%)÷(100 ー 吸入濃度)である。そして分配係数の大きいものほど単位時間あたりの拡散量が多い。笑気麻酔ではその吸入濃度が50〜80%と他の吸入麻酔薬と比べて極端に高いので閉鎖腔の膨張、内圧の上昇が大きい。

 空気呼吸でも80%窒素によって、SF6注入後24時間で眼内圧が最高に達し、その後10日で完全吸収される。閉鎖腔の膨張、内圧上昇は吸入ガス濃度つまり血中分圧に規定される14)。因みに言えば笑気を1〜3%で吸入しているときの閉鎖腔内圧は他の揮発性麻酔薬と同様、問題にならない。

 開放腔である肺胞でのガス拡散、つまり脱窒素や吸入麻酔覚醒時の麻酔ガス排泄も体内閉鎖腔とまったく同じ現象である。笑気による拡散性酸素欠乏の場合も血中笑気分圧が極度に高いことが条件である。

 6 まとめ

 体内閉鎖腔へのガスの拡散現象は笑気のみではなく窒素、酸素、二酸化炭素そして全ての吸入麻酔薬で起こる。分配係数の小さい窒素で満たされている体内閉鎖腔内圧上昇に大きく影響するのは「血中溶存麻酔ガスの分圧、すなわち高濃度吸入」であり、吸入濃度が高いほど内圧の上昇が大きい。分配係数の大小は閉鎖腔内圧上昇の速度を規定する。

January  AD 2000

                                  参考文献

1)Eger EI II:Hazards of nitrous oxide anesthesia in bowel obstruction and pneumothorax. Anesthesiology 26:61, 1965.

2)歯科麻酔学、第5版、医歯薬出版、東京、1998、287.

3)最新麻酔科学、第1版、克誠堂、東京、1984、1009、1050、650、1006.

4)NEW麻酔科学、南江堂、東京、1989、259.

5)麻酔科の実際、南江堂、東京、1987、63.

6)麻酔科学、第9版、金芳堂、東京、1997、181.

7)現代麻酔科学、朝倉書店、東京、1987、68.

8)麻酔科学書、克誠堂、東京、1991、115.

9)CLINICAL ANESTHESIA、Lippincott Company  Phila.  1989、1057.

10)麻酔の研修ハンドブック、金芳堂、東京、1989、98.

11)物理学事典、培風館、東京、1992、550.

12)新生理学(下)、第3版、医学書院、東京、1971、406、22、761ー764、400.

13)村尾誠ほか訳:肺、医歯薬出版、東京、1975、131.

14)スタンダード歯科麻酔学、学研書院、東京、1995、        122.