恥と誇り

 「日本の文化は恥の文化である」といわれた。

 「日本人は自分自身に厳しい枷をはめている。それは社会的に非難されたり葬り去られる恐怖から逃れる為であり、彼らは自己規制によって一度その味を覚えた個人的欲望とそれを満足する喜びを放棄しなければならない。彼らは人生における重大時にはこの衝動を抑制しなければならない。これを犯して自らの自尊心まで失う危険に身を晒す者はほとんどみられない。何事をするにも「jichou自重し、そしてその判断基準は善悪ではなく社会的評価が得られるか、得られないかである。立派な人とは「hajiを知る人であり、常に慎重に行動する人である。恥を知る者は家族へ、一族へ、そして国家へ名誉をもたらす。・・・・日本人は自己責任について、自由なアメリカよりもはるかに徹底した観念をもって認識している。このため日本人の刀は攻撃を象徴するものではなく、理想と自己責任を象徴するものとなっている。」

 これは昭和20年以前、つまり戦前の日本人の倫理観を分析し、1946年に出版されたRuth Benedict の著書「The Chrysanthemum and the Sword , 12 The Child Learns・菊と刀、12章 子供は学ぶ」の内容の一部である。彼女は一度も来日したことがないにもかかわらず、日本人の精神生活と文化について詳細に分析しているのは、まさに驚嘆に値する著書である。

 恥を知ることの善し悪し、あるいはその意義は別にして現在の日本にかつての恥を知る日本人がどれほど居るだろうか。

 新渡戸稲造博士は著書「武士道」の中で、「恥はすべての徳、善き道徳の土壌である」と述べ、恥を知ることの意義を肯定的に取り上げている。

 新渡戸博士によれば、恥の語源は、梵語で「傷を負う」の意味を持っていると考えられる。即ち、恥は痛みを意味するのである。

 この恥とは、良心に対する傷を感じること、良心に対し痛みを感じ取り、自分の心に対して恥じることである。良心が鈍感になれば、恥を感じなくなる。良心の恥は生産的な恥でありその判断基準は善である。そしてこの恥は自分の行いに誇りを持つ「矜恃」に通じ、また「罪を天に獲れば、祷る所なし」(論語 八いつ篇・七七、獲罪於天無所祷也。)と答えた孔子の教えに通ずるものである。

 他方、非生産的な負の恥もある。これは劣等感につながる恥である。幼児期に幼児が人からさらしものになっていると感じたり、幼児ばかりでなく大人でも人から不当に見られているという自意識から生まれるのが「羞恥心」であり、時には劣等意識から幼児的残虐性を発揮し周りの者たちを傷つけることになる。この場合の恥は劣等感から起こる心理的な恥で、非生産的な負の恥である。R. Benedict の指摘した日本人の倫理、恥の観念は善悪に無関係な非生産的負の恥である。良心に対する心の痛みである「生産的恥」について彼女は気付いていないのか、指摘していない。

 新渡戸博士は、武士道とは己の良心に対する恥を持つことであると説いている。R. Benedictは非生産的恥を指摘したのであり、さらに日本人の中で九割以上の多数を占めていた武士以外の一般庶民の倫理観については明確には触れていない。そして日本武士の「刀に対する観念」、すなわち武士の誇りの象徴としての「刀は武士の魂」が一般庶民とは無縁の存在であったことに、彼女は気付いていない。

 しかし武士道が、旧日本軍部によって単に命令に盲従することを美徳とし、それを庶民出身の兵士達に強要する「下劣化した武士道」として存在した時代には、西洋のシバリー(chivalry・騎士道)にも対比されうる新渡戸博士の「崇高な道徳としての武士道」(アグネシカ・コズイラ著 新渡戸稲造のキリスト教的武士道から)は忘れ去られ、それを彼女が指摘したと考えるべきなのかもしれない。

 昨今の世相を見ると、日本人から生産的良心に対する恥の心がさらに薄れ非生産的負の恥からの、それどころか恥も誇りも捨て去った不道徳的現象が多い。ルーズベルト大統領に感銘を与えた武士道の精神は何処へいってしまったのか。武士道の精神は、やはり一般庶民とは無関係の武士のみの、それも一部の武士の精神であったのか。真の武士は、もはや日本の社会には一人もいなくなったのだろうか。身近を見回してみてもあまりにも身勝手な、そして恥も誇りもかなぐり捨てた行動をとる者が見受けられる。

 「国や人が国際化、あるいは国際人になるということは、愛国心の延長上にある。自国への愛国心を持たない者は相手の人も国についても正しく理解ができず、外国人との間に健全な国際関係は成り立ち得ない。」 これは新渡戸稲造先生の言葉である。先生は「太平洋の架け橋たらん」との理念に燃え、日本の心を世界に紹介する英文の名著「 Bushido ----- The Soul of Japan  武士道 日本の魂 1899」を著された。「Bushido」は世界各国語に訳されベストセラーとなり、世界の人々に深い感銘を与えた。

 国際人としての新渡戸稲造先生が、日本人の倫理観を西欧人に正しく理解させるには武士道の精神を紹介するのがもっとも近道であると考えた結果が「Bushido」の名著である。米国第26代大統領セオドア・ルーズベルトはこの著書を読み、「武士道の心を持つ男になれ」と自らの子息を諭したという。この書を読み感銘をうけたルーズベルト大統領はその読後感の中で「・・・予は、此書を読で始めて日本国民の徳性を知悉することを得たれば、・・・五人の子供に各々一部を配布し、日常此書を熟読して日本人の如く高尚優美なる性格と誠実剛毅なる精神とを涵養すべしと申し付けたり。而して書中、日本人が尊信する天皇陛下に代わるべきもの我が共和国に之れなきがために、先ず北米合衆国の国旗を以て之に充てるべしと談じおきたり。・・・・」と述べている(日本外交文書・日露戦争V、708ページ)。やがてルーズベルト大統領は、日露講和の仲介役となるが、その立場、姿勢は親日的であった。そういう方向へ大統領を導く原動力になったのは、この著書「武士道」でもあった。(新渡戸稲造研究第六号より)

 自国を愛することは自国の国旗を尊崇し、国旗の基に心を一にすることでもある。同時に相手国を理解しその国旗を尊崇することは国際人としての国際社会における基本的倫理である。スポーツの場であっても、どのような場であっても国旗掲揚と国歌吹奏に際し帽子も脱らず不敬不遜な態度をとることは誇りも恥も失った行為であり、相手国を侮辱する行為である。国旗を侮辱することは如何なる国際社会でも許されない。

21世紀にむけて、日本人はどうすればよいのか? どうなるのだろうか。

March 1998