下学して上達す
 

 ドイツに「学者はつむじまがり」と言う俚諺がある(故事名言・由来;自由国民社、1979)。「学者ともなれば、だんだん常識からはずれて、気むずかしくなる」という。
 入学試験の受験生が提出した小論文の中に「将来歯科医師にとって役にたたない基礎教養科目などは止めて、一年生のときから専門科目の授業をするべきだ」と主張するものがあった。
 教養を身に付けることは人にとって大切であるし、教育の基本でもある。歯科医師にとって、専門知識を身につけることは当然である。しかし、人としての教養はどのような職業、立場にあっても欠くことのできないものである。特に人間である病者のための医学を志す者にとって、これは資質とでもいうべき欠くことのできない素養である。そして教養は学歴によって身につくものではない。
 基礎教養の重要性を理解できない者に、医学を志す事が許されないのは当然であろう。
 「子の曰く、我を知るなきか。天を怨みず、人を尤めず。下学して上達す。我を知るものは、其れ天か。」(論語 憲問篇 第一四 五七五)
 孔子が死なれる2年前,71歳の時の言葉である。
 「今日まで諸国を歩き回ったけれども、何人も自分を用いないところから考えると、自分は人に知られないで終わるらしい。」しかし孔子は「自分を知って用いるものが無いにしても、天を怨みもせず、人もとがめない。自分の修めるべきことを修め得たのだから、それで満足だ。人情のごとき下の所から学問して、上は天道自然の理まで悟ったのである。人には知られないでも、天は知ってくれるに違いない。それで心残りの事はない」と弟子の子貢に語った言葉である。
 「下学して上達す」(下学而上達)は、「まず手近で容易なことから学習し、その後次第に高遠な学理道理を学び達する」と解釈する人が多い。しかし「下を学び、而して上に達する」と解釈するのが、孔子の真意に沿うのではなかろうか。「下」とは、人間界の事事であり、手近で容易な事柄という意味ではない。日常生活に密着した基礎教養であり世俗的人情であり、常識ある社会人の備えるべき教養である。真理は日常生活の中にある。したがって安易な心掛けでは下学することはできない。その究極が、弟子に仁とはなにかと問われた時の孔子の答え「人を愛す」であり(仁を問う。子の日く。人を愛す。論語 顔淵篇 四七三)、五常の精神、仁義礼智信の実践であろう。そして「上」とは天道自然の理であり、高遠な専門的学理である。「下学」は「上達」のために欠くことのできない基礎であり、素養である。
 新渡戸稲造先生は教育について論語(為政篇第二・四二 子日。君子不器)を引用され「教育の目的は人格を高尚にすることである」と述べておられる。「人間すなわち器ならず、真理を研究する道具ではない。君子は器ならずということを考えたならば学問の最大かつ最高の目的は、おそらくこの人格を養うことでないかと思う。専門学に汲々としているばかりで、世間のことは何も知らず、他のことに一切不案内で、また偏屈で、いわゆる学者めいた人間を造るのではなくて、すべての点に円満なる人間を造る事を第一の目的としなければならない」と。そして「専門学者の中には、学問と人格は別のものである。学問の目的は真理功究であり、人間はただ真理を功究する一つの道具である。人格などはどうでもよい、という議論をする人がいるが誤りである。先ず己の修めるべき所のものは十分にこれを修め、そうしてだれとでも相応に談話ができて、円満に人々と交際をしていけることが教育、すなわち学問の最大目的である(新渡戸稲造研究第6号、1997)」とも述べておられる。
 一般の事物にも多少精通しなければ、人生の真身を理解しえない。何事でも一通りは知っているようにしなければならない。何事についても何か知ることが必要である。これが教育の目的である。
 雑学として色々なことを幅広く知っていることによって円満な人格ができてゆくということである。
 ドイツのつむじ曲がりの学者のように専門知識には長けていてもつむじ曲がりになって自分の殻の中に閉じこもったり、どんなに立派な研究業績をあげても世俗的人情も理解できず自己主張ばかりで周りの人たちを非難し不愉快な想いを与え、だんだん社会常識からはずれることのないよう、医学に携わる私は「下学」に心がけたい。

      September  1997