教育の目的

 

 教育の目的はなにか、そして具体的にそれを学生教育に適応させるにはどうすればよいのか。私には、それが日頃から常に気に掛かっていた。たまたま新渡戸稲造研究(財・新渡戸基金、盛岡市)を手にする機会を得て、その中に私の疑問に答える博士の言葉を発見した。その内容は、私一人のものにしておくのはあまりにも残念であるとの思いから、多くの人たちにも紹介したい。

 「新渡戸稲造全集」五巻の随想録の中で教育の目的について、人間形成、人格形成ということが修養の基盤になるという考え方を博士は示されている。

 第一の目的

 ドイツの様な職業教育である。技能を身に付け、職業人として立っていくための教育である。

 第二の目的

 趣味として学問や芸術を学ぶのである。職業を持ちながら余暇を利用して学問教養を身に付けることを楽しむ。

 第三の目的

 装飾のための教育である。学問を一種の飾りとしてやることも人生を楽しくし、幅をもたせる。例えば議論をするとき、一寸昔の歌を入れたり、古人の言行を挙げてみたりすると、飾りとなり耳で聞いておもしろくなる。人の交際でも、いきなり用件を切り出すより「おはよう」とのお互いの挨拶があった方が滑らかにいく。そのような幅を持たせるのが、装飾のための学問である。このように新渡戸博士は「衣装哲学・Thomas Carlyle」から引用して述べている。

 第四の目的

 真理の探究である。学問をする上で重要な要素であると思う。博士は真理の研究が大切なことだと述べている。実用には向かなくても物事の原理、真理を探求していくことは教育の上で大事な要素であると述べている。

 第五の目的

 「人格を高尚にすること」である。

 専門の学に汲々としているばかりで、世間のことは何も知らず、他の事に一切不案内で、また偏屈で、いわゆる学者めいた人間を造るのではなく、すべての点に円満なる人間を造る事を第一の目的としなければならない。一つの専門性を極めるということではなく、学問を通して人格を高尚にすることであるということを新渡戸博士は主張した。センモンセンスよりもコンモンセンス(常識、さらに良識)であると述べた所以である。

 『「あれは一寸学者見たような、百姓見たような、役人見たような、弁護士見たような、商人見たようなところもある」という、なんだか訳のわからぬ奴が、僕の理想とする人間だ。学問の最大目的は、人間を円満に発達せしめることである。人間は真理を研究する道具ではない。君子は器ならずということを考えたならば学問の最大且つ最高の目的は、おそらくこの人格を養うことで無いかと思う。』 全人教育が大切であり、雑学として色々なことを幅広く知っていることによって円満な人格ができてゆくということである。

 「ソシヤス」(socius)という言葉があるが、これは「社会に立って、社会にいる人」の意である。ラテン語の「ソシヤス」という言葉は、共同者、仲間、組合員、会員ということで、何人かが集まったグループによって立つということである。人間は決して孤立できない。仲間をつくっていくものである。そして仲間が共に生きて行く、その人と人との間に円滑な人間関係を作っていく為に、円満で高尚な人格を目標として修養を積んでいくということである。

 以上の五つの目的を煎じ詰めて言えば、教育とは人間の製造である。カーライル(1795〜1881)は「学者は論理学を刻みだす機械だ」と罵ったが、その通りである。普段難しい論理を刻みだしているのは機械に過ぎず、人間を造り出していない。人間を造り出すのが教育だということである。

 新渡戸博士は教育の最終目的を、ただ単に知識を蓄積することではなく学ぶことによって高尚な人格を造り、人と人との交わりを円滑にしてゆくための「修養」であると述べている。  おわり                   January    1999

 

 われ太平洋の架け橋たらん  新渡戸稲造博士の経歴 

 

1862年 (文久2年)        盛岡市鷹匠小路に生まれる

1877  (明治10年)    札幌農学校入校                第二期生

1881                                         卒業   北海道開拓使御用係

1883     21歳     東京大学文学部専科生  英文学・理財統計学

                入試の口頭試問宦の質問に「許されるならば太平洋の橋になりたい」といったことは有名。

1884            ジョンズ・ホプキンス大学入学(ボルテイモア市)私費留学

                                                経済学、史学、文学を学ぶ

1887  (明治20年)25歳                助教授に任命されドイツ留学、ボン・ベルリン・ハル諸大学にて

                                                農政学・農業経済学を学ぶ 

1890                                         日本土地制度論(ドイツ語)を発表

1891(明治24年6年間) 29歳、メアリー夫人と結婚後帰国し、                札幌農学校の教授

1897 (明治30年)                           病のため札幌農学校を辞任、伊香保温泉で転地療養中に執筆した「農業本論」                                                を発表、ベストセラーとなる。

1898(明治31年10月)       ベルツ博士の勧めでカリフォルニア州モントレーへ転地療養。 

                                                Bushidoをホテル「デル・モンテ」で執筆。現在海軍大学校の研究施設

1899(明治32年3月27日) 農学博士号を授与される。(モントレー滞在中)

                                佐藤昌介博士(北大初代総長)らとともにわが国の農学博士号の第一号である

1900 (明治33年)                           BushidoーThe soul of Japan をアメリカで出版

                                                数カ国語に翻訳され、世界のベストセラーとなった

1901(明治34年)                           台湾総督府の技師に就任、製糖業の基礎を確立

 その後台湾での行政官から再度学者・教育者の生活に戻り

1903                                         京都帝国大学農科大学教授  農政学

1906〜1913(明治39年)  第一高等学校校長

1911 (明治44年)                           著書「修養」

                                                クエーカー教徒である博士はキリスト教倫理の面から修養に力を尽くした。

1913                                         東京帝国大学法科大学教授 植民政策講座                 

1918 (大正7年)                           新設東京女子大学の初代学長

1920〜1926 その後は      国際連盟事務局次長としてジュネーブを本拠に活発な国際活動を展開。

                                帰国後は 貴族院議員となり,太平洋問題調査会理事長

1933、10、15                                カナダ・バンフにおける太平洋問題調査会の国際会議に出席したが、病を得                                       てカナダ、ブリテシュ・コロンビア、ビクトリア市の病院で客死