臓器移植と麻酔科医

 

 新潟で開かれた第44回日本麻酔学会総会で、武下浩氏の特別講演「脳死と臓器移植」に出席する機会を得た。

 武下氏は『脳死は「脳の死」と呼ぶべきであり、また脳死は「人の死」ではない。「命」は人にとって抽象的概念であり、具体的な物質のように「命」を捨てたり拾ったり、落としたりする人を見ることはない。「死」の概念はその時代、その国の文化などによって異なる倫理概念である』、と講演された。

 脳死とは自律神経機能を含めた中枢神経機能の不可逆的廃絶であり、植物状態では自前の呼吸運動は維持されているが、脳死状態では人工呼吸器の助けがなければ心臓の拍動を維持できない。Dorland 医学大辞典(25版)を開くと「死 deathは1全体脳機能2呼吸系の自発機能3循環系の自発機能、これらすべての非可逆的停止。brain death はirreversible coma。機能的死functional deathは中枢神経系すべての永久的破壊、しかし神経系以外の生体機能は人工的手段によって維持される」と記載されている。

 国会での脳死の審議の目的は、臓器移植の是非であり人の死を定義するためではない。法案の目的は、心肺など臓器を提供しようとする善意のドナーが存在し、その一方に移植でしか助かる道がないレシピエントがいる現状を法律で支えようというもので、一律に人の死の概念を変えるものでも、強制的に臓器を摘出使用しようというものでもない。

 法案成立にいちるの望みを託しながら、無念の思いを残して力つきた患者は、この五年間に約七千人で、一日平均四人近くにのぼる(産経新聞3月21日)。

 しかし「第四の立場も含めて幅広い視野から審議を深めてほしい」「法案の採決は、まだ早いと考える」と社説ではなく「解説」に近い主張で曖昧模糊とした、かつ現実に目を背けた後ろ向きの論調で社説を掲げているのは4月17日の朝日新聞の社説である。

「なお論議を深める時間は今国会でもあるはずだ」というが、臓器提供を待ち望んでいる患者には、もはや一刻の猶予も許されないのである。この期に及んで「もっと悩め」とか「採決を急ぐな」では、社説の役割を放棄しているようなものだ。朝日の記者の脳は、どうやら判断停止の状態に陥っているようだ。(文芸春秋6月号)。

 臓器移植に反対する人たちは、外国で臓器移植を受けようとする人たちに対しても反対するのであろうか。あるいは外国人の臓器ならば反対しないのだろうか。もしそうであるならば矛盾した、なんと身勝手な論調といわざるを得ない。臓器移植を望む不治の病の家族を身近に持たない多くの国民は「脳死」や「臓器移植」についての関心も正しい理解も持とうとしない。中には無責任な評論家気取りの意見を吐く人もいる。

 麻酔はもともと手術のための補助手段であり、手術がなければ麻酔科医の出番はない。臨床医学を内科系と外科系とに大きく分類すると、歯科医学は外科の一分野であり麻酔科学あるいは麻酔科は内科学の一分野である。麻酔科は手術室での仕事が多いので外科系と考えている人がいるが、それは麻酔科学を理解していない証拠である。麻酔科学は臨床における最も基礎的分野である。痛みの基礎と臨床、麻酔管理法、呼吸循環の管理、全身管理の問題と多岐にわたっている。麻酔科医の仕事の中で手先の技術的な仕事は喉頭鏡の操作ぐらいで、他にはあまりない。生理学と薬理学、そして生化学の知識を基礎に患者の状態を判断評価し、適切な処置を決定することばかりである。生理学の中では特に呼吸と循環が大切で、これらの異常は待ったなしに患者の生命の危険に結びつく。この点、すなわち判断と処置に即決即断を欠かせない点、麻酔科学と内科学とで大きく相違するところである。

 臨床における麻酔科医の役割の一つに、脳死の判定がある。

 全ての脳機能の喪失と全ての神経反射の喪失を「脳死」とするという厚生省臨時脳死及び臓器移植調査会、いわゆる脳死臨調の竹内基準が1985年に発表された。脳死の判定は臨床診断である。したがって脳死の判定は麻酔科医によらなければならない。臨床的には脳幹のCO2に対する反応性をみるための、無呼吸テストを欠かせない。

 このように麻酔科医の仕事上の特徴から、麻酔科医の仕事の分野は手術室の麻酔業務から離れて広がり、今ではICU( intensive care unit ), CCU( coronary or critical care unit )が創設され麻酔科医によって運営さている。

 歯科外来患者の歯科治療中に患者の容態が急変し、主治医を慌てさせる事態に遭遇することがある。当然、主治医は事態を把握し適切な処置を施すべきであり、それは主治医の義務でもある。この場合の適切な処置は多くの場合麻酔学蘇生学、すなわち内科学の知識と判断が適応になる。歯科治療は臨床医療のなかでも比較的侵襲が小さい。しかし、如何に小さな侵襲であろうとも大きなストレスをもたらすこともあり、歯科医師は保存科、補綴科であろうとも臨床家として備えておくべき基本的患者管理、つまり内科学を基礎とする知識を身に付けるよう常に努力するべきである。

 歯科大学における麻酔科の役割の一つは、基礎的患者管理学について学生はもとより歯科医師を教育指導することにある。麻酔科学は「生体管理内科学」である。

June 10 1997